真福寺は実は当初は秩父札所には組み入れられてはいなかったのだという。 なぜ、他の札所が88とか33というゾロ目の数なのに秩父だけは34なのか。そうした謎も実はこのあたりにある。西国33箇所、坂東33箇所と秩父33箇所にもう一箇所を加えて百観音とするということで、秩父を34箇所にした。 これが、秩父の札所が西国、坂東とは異なって34箇所である所以。 なお、真福寺は、天文年間(1532〜55)に鎌倉建長寺の春沢香梅による光明寺の中興開山(山田への移動)によって光明寺に組み込まれたとされる。後に、光明寺は曹洞宗になり観音堂も移築された。宝暦8(1758)年のことという。 写真は真福寺を傘下に持つ光明寺。納経はここで受け付けている。 34番から振り出しの1番へ。途中で饅頭を喰らう。秩父の市内に入って道をグルグルと回って1番に辿り着く。 ここは、行基よって観音像を安置したのが始まりとされ、後に秩父霊場を開いた性空上人(播磨国書写山円教寺)の遺命で堂宇を建立したのだという(中興開山は幻通上人)。その頃は四万部山にあったが山を下った。下ってからは、秩父24番札所とされてきたが、江戸からの参拝の便宜を考えて飯能経由での入り口に当たるために1番に改められる。そのためだろうか、四万部寺の前には旅籠がある。こうした旅籠をはっきりと目にしたのはこの1番だけだ。その他にも、例えば13番の近辺などにも旅館があるが寺の前ではなく、少し離れたところにあった。江戸から飯能を経てはるばるやってきた庶民が、さぁ明日から巡礼を始めようと、ここで旅装を解く。そういうことが見られたのだろう。 なお、この寺は、端山守的(大宮郷広見寺)による妙音寺(曹洞宗)開山に伴って、妙音寺が性空上人の観音堂の別当となり、一体化して四万部寺となったという。 秩父市大字栃谷418 途中、満願の湯なる温泉場を見掛ける。一風呂浴びるという時間的余裕は残念ながらない。とはいうものの、まるで本能のように立ち寄る。満願の湯は立ち寄り湯で宿泊施設はないとのこと。奥のほうに建物があったが、居住用の建物で宿泊施設ではないらしい。その建物と満願の湯との丁度間に地元の農産物センタがあった。ここで、まんじゅうやら団子やら柿やらそばを買う。なんで、饅頭か。秩父のあんこは美味しいのだ。そばは言うまでもない。 さて、水潜寺。参道の入り口には川が流れている。寺の名前も水潜寺。水、水、水だ。ところが、この寺、平安時代にこの地方を旱魃が襲ったみぎりに、旅僧が「樹甘露法雨」と書いて雨を降らせたことに起源を持つという。祈ったところが現在の水潜寺の場所という。近くに札立峠というのがあるが、その由来は名の如しである。 当日は、丁度、雨が降り止んだばかりで、周りの景色はまさに水潜寺の由来に相応しいものだった。 埼玉県秩父郡皆野町日野沢3522 寺の前に大きな蔵造りの建物がある。そういうところからか、ここは秩父のいわゆる市街地からはかなり離れていることにはなるのだが、秩父の歴史の古さというのか、そういうものを感じることが出来る。 菊水寺の近くの8人峠には昔8人の盗賊が住み着いて、たいそう人々を苦しめたのだという。ところが、旅僧がこれを仏道によって戒め、「盗みの罪はきわめて重い。しかし、心を改めるなら仏の慈悲が下されるであろう。」との言葉に、8人は悔い改めて仏道に専心した。その8人が観音像を安置したのが菊水寺なのだと言い伝えられている。 ここから、いよいよ、秩父札所の最終霊場でもあり、百観音霊場の最終霊場でもある34番の水潜寺に向かう。 秩父郡吉田町桜井1104 ここも、2回目に回ろうと考えていたところ。前回は直ぐすばを通り過ぎる形になっていた。今回は道を曲がって山門に至る。山門の前に駐車場があって、大抵の巡礼者はそこに車を止めていた。しかしである。少林寺のときと同じく、ここでも地元のタクシーの運転手は一枚上手であった。その山門から観音堂の方向へそのまま車を進めて、弁天池の手前の細い道を右折すると、なんと、そこには駐車場があるのだ。残念ながら、そういうことは参拝のあとに気付いた。 久昌寺は両国24番中山寺と並んで、秩父霊場を開いた性空上人(播磨国書写山円教寺)が閻魔大王から拝領した石の証文、手判を納めた寺とされる。 このため、久昌寺は御手判寺とも呼ばれるという。 秩父市久那2215 |