古都鎌倉にあって、この神社は新しい。 明治2(1869)年の創建。 新しいとは言っても、何もないところに創建されたわけではない。元は東光寺という寺が鎌倉時代からあった場所。この東光寺は建武の新政の一翼を担い、後に足利氏によって処刑された後醍醐天皇の第三皇子、征夷大将軍大塔宮護良親王(1308〜1335)の終焉の地でもある。 護良親王は足利軍に破れ鎌倉に配流、足利尊氏の弟直義(ただよし)によって東光寺の土牢に幽閉された。その土牢は現在でも残されている。 その後、建武2(1335)年に北条高時の遺児時行が諏訪頼重に擁立されて鎌倉府を攻める(「中先代の乱」)。直義は鎌倉府を落ちる際に幽閉中の護良親王を淵辺義博に命じて処刑した。 歴史は古く鎌倉の地に幕府が開かれる前の長治元(1104)年に創建されたという。 源 頼朝によって幕府が開かれると、幕府の鬼門として栄えた。なるほど、大蔵幕府のあった辺りからは、この荏柄天神の鎮座する地は鬼門に当たる。そもそも、幕府の地を選定するに当たって、荏柄天神を鬼門にする位置という指示が頼朝よりなされたとのこと。 昭和4年に立てられた鎌倉町青年團の碑文によると、「荏柄」というのはこの地の古い呼び名とのことらしい。もとは、「江がや」と呼ばれていたのが転訛したという説が触れられている。 享徳4(1455)年に、鎌倉公方足利成氏に対する討伐軍を率いた、室町幕府の上総介範忠が鎌倉に入府する。この時に討幕軍の一翼を担った今川軍の一団が荏柄天神を駿州に移したが、兵乱が収まると元に遷座し現在に至っている。 その後も後北条氏、徳川氏の庇護を受け、鶴岡八幡宮の造営の度に余材を受けて修造したという(碑文)。 鎌倉幕府滅亡の折、新田義貞と最期の執権北条守時が激闘を繰り広げた巨福呂坂切り通しのそばにある。 この辺りは鶴岡八幡宮の裏手であり、八幡宮の僧侶が住む二十五坊と、僧官が住む別当坊があったことで知られる。碑文によれば、実朝の首を手にした公暁はここに身を潜めたという。 関東大乱期に坊(院と改称)数は減り、残った7院に徳川家康が復興した5院を加えて、江戸時代には12院となる。しかし、鎌倉の地が政治の中心であったならばともかく、寒村となっていたこともあり、明治維新後は全ての院が姿を消した。 現在、残念ながら、この地にその痕跡はない。 大わらじがどんと2つ、仁王門に掲げられている。その光景があまりにも強烈に残っている。もちろん、境内には数多くの石仏があり、これは有名でもあり、かつ見るべきものだ。しかし、大わらじは、そこに至る前の第一印象として刻まれる。 昔、この寺がまだ山田に下るまえのこと。この寺の本尊が巡礼姿に身を窶し、荒木丹下という荒くれ者を仏道へと導いたという話が伝えられている。故に、この寺をまた荒木寺ともいう。 金昌寺へと入る道の途中に三和という美味しい蕎麦屋がある。秩父は蕎麦が有名ということを知っているなら、この三和に入らない手はない。 22番のキャッツアイと4番の三和。お食事所としては言うことなしである。 秩父市大字山田1803-2 畑と山に囲まれたところにある。 観音堂は、熊谷宿玉井の名工、飯田和泉の作であり、向拝海老虹梁の龍のかご彫りが有名。それと、もうひとつ、寺の入り口のすぐそばにある百日紅(さるすべり)も見事なもの。しかし、どうして百日紅には皮がないのだろうか。 秩父市大字山田1392 |