妙心寺平唐門


後小松天皇が御所より移築したとされる平唐門。この門には応仁の乱のときに受けた弓矢の跡がくっきりと残る。
平唐門のある玉鳳院は妙心寺の中で一番大きい塔頭。非公開であるけれども、春の特別公開中であったために、中に入ることも出来た。中には花園法皇の御所や開山堂があり、狩野安信による襖絵、狩野探幽の甥・益信の作の秋草図がある。
また、御所と開山堂の間には豊臣秀吉の長男、鶴松の菩提を弔うお堂がひっそりと存在している。
2003年3月7日撮影。
出水山覚翁寺


寛永十一年(1634)勝浦城主植村泰勝が死去した時、勝浦城内にあった浄林寺をここに移し、泰勝の幼名覚翁丸をとって出水山覚翁寺としたとの由来を持つ覚翁寺にある植村家累代の墓。
この近くに図書館があり、ここで一服。
徳蔵寺

現在は城址に臨済宗大徳寺派徳蔵寺が建つ。わずかに、寺の周囲を囲むように2本流れる川にかつてを偲ぶことが出来る。
 この地域は足利宮内少輔泰氏の次男板倉二郎義顕(板倉家、後の渋川家)から始まる板倉氏の支配地であり、「新編武蔵風土記稿」に土塁や塀の跡があったことが記されている。
 川を挟んで北側の八国山将軍塚に新田義貞軍が布陣し鎌倉幕府軍と対峙した。
 この川のすぐ近くで久米川の戦いが繰り広げられたとされる。
筋替橋

昼に出てきたので、朝食を採っていなかった。そこで、コンビニでパンを買おうと歩く。すると、店の直ぐ前に碑文が立つ。
 何でも、この辺りは鎌倉時代の「須地賀江(すじかえ)橋」に相当するという。
「須地賀江(すじかえ)橋」はいわゆる鎌倉十橋の一つとして知られ、1265年3月告知の公認府内商業地の一つ。
 ここはまた、名越光時の乱で得宗家に与力した三浦泰村一族が得宗時頼と安達景盛の挑発によって蜂起した宝治合戦(宝治元[1247]年)の折に安達景盛が武力を終結させた地(『吾妻鏡』)としても知られる。
 三浦軍と安達軍の戦いが激烈を極めたが、劣勢明らかになると、三浦軍は泰村以下一族郎党が法華堂(現白旗社)で自害し関東の名族三浦氏は滅亡。
 なお、三浦介の名跡は支族佐原氏が後北条早雲に滅ぼされた永正13(1516)年まで伝える。
大蔵幕府

鎌倉開府に先立つ1180年に源 頼朝の屋敷があったところ。幕府を開くと、屋敷がそのまま政庁となり、大蔵幕府と呼ばれた。
 今は清泉小学校が立つ。
 この小学校のフェンスには、近くの遺跡を紹介する案内板が掲示されていた。否、案内板というより研究発表のようなというべきだろうか。勉強になる。
 大蔵幕府は源三代の政庁として機能する。しかし、1225年に北条政子が世を去ると、幕府はここから宇津宮辻に移った。