玄武山普済寺

残堀川を越えて行くと、多摩川を見下ろす高台に出る。この高台の端に臨済宗の寺である
玄武山普済寺が鎮座している。この普済寺の寺域は、かつてこの辺りを支配下に治めていた武蔵七党日奉(ひまつり)流西党立河氏の居城の跡として知られている。寺の山門を潜り、本堂に進むと、脇に一際大きな木が聳(そび)えている。その大きな木の立つところに目を凝らすと、土塁であることがすぐに分かる。かつて、この地が城屋であったことを示すのはただこの土塁と伝説だけといえる。
 また、定かではないが墓地の北辺には立河合戦の犠牲者を弔ったものとも、立河一族の墓とも伝えられる板碑と塚が残されている。
この辺りは、鎌倉公方足利成氏と山内・扇谷両上杉家が刃を交えた享徳4(1455)年の第一次立河原合戦の主戦場となった。足利成氏烏森稲荷社(現東京都港区新橋)における戦勝祈願の後に高安寺(現府中市)に布陣。豊島勘解由左衛門をはじめとする豊島氏を加えて1月21日から2日間にわたって立河原で上杉軍と激突。
多数の死者を出し、足利公方軍が勝利を収め、犬懸上杉憲顕高幡不動(現府中市)で自刃。上杉軍は扇谷上杉顕房、武蔵守護代大石房重ら主だった武将が戦死するに至る。
 さらに、長享元(1487)年に始まった扇谷・山内両上杉軍が激突した長享の乱の際にも、立河原は主戦場の一つとなっている。この地が再び血で覆われたのである。
この戦いでは、北条早雲今川氏親が扇谷上杉軍に加わって、「二千余討死討捨、生捕の馬、物の具充満」というほど凄惨を極めた。世に言う第二次立河原合戦である。立河原合戦は扇谷上杉軍の勝利となるが、長享の乱は山内上杉軍の勝利で幕が下りる。
この戦いのしばらく後に、第二次立河原合戦の勝利者の後北条家が立河原一帯を統治することになる。'
小机城址

JR横浜線の小机駅を降りると直ぐに小高い丘を確認できる。これが、「長尾景春の乱」の舞台となった小机城の跡。畑を抜けると閑静な住宅街に至る。住宅街を貫く道はやがて細くなり、線路で遮られる。その手前に小机城への入り口がある。
鎌倉公方足利持氏は犬懸上杉氏憲(禅秀)による「禅秀の乱」を関東管領山内上杉憲基とともに戦い抜き、多摩の南一揆衆の加勢によって勝利を収める。しかし、足利持氏と関東管領山内上杉憲実は対立するに至る。もともと、鎌倉公方は京の室町幕府将軍家からの独立を図り、一方の関東管領上杉家は室町幕府を代理して抑えとしての役割を担っていた。このため、鎌倉公方と関東管領の衝突は制度的に不可避であったとも言える。
 永享10(1438)年、足利持氏は山内上杉憲実と覇権を競い、結果として自刃。その子の成氏はやがて父親を継ぎ関東公方となる。衝突の種は蒔かれたのである。果たして、成氏は享徳3(1454)年に憲実を継いだ憲忠を誅殺し戦端を開く。関東武士団は上杉方と公方方に真っ二つに分かれて戦う。戦いは長期にわたり、この戦いで関東の勢力図が変わっていく。しかし、事態は文明8(1476)年に意外な要素を加えることになる。
 山内上杉顕定の家宰の職を逃した長尾景春が叛旗を翻したのである。叛乱は、上杉方の支配地域に再び激震をもたらした。
 小机城には長尾軍に加わった矢野兵庫助が篭城し、甲山(現新羽町亀ノ子橋)に布陣した上杉方の扇谷上杉家宰の太田道灌と対峙。小机城は要害と言われるも落城の憂き目に遭う。後に、この地を治めた後北条家支配下になるも廃城。大永4(1524)年に北条氏尭が城主となり城代の笠原越前守信為によって、再び城として再興。江戸城(現皇居)、玉縄城、榎下城(現旧城寺)と要衝ラインを形成。
 北条氏滅亡とともに、4代城主弥次郎平衛重政は徳川家康家臣となり台村に200石の知行を拝領するに至って廃城となった。

さざえ堂

正式には三匝堂という。坂東33ヶ所、西国33ヶ所、秩父34ヶ所の霊場の観音像のレプリカ合計100体が安置してあるお堂のことを百体観音堂という。その百体観音堂の中で、階段が螺旋状で、なおかつ上りの入り口と下りの出口が異なるものを「さざえ堂」と呼ぶ。
 このさざえ堂の始まりは安永年間の羅漢寺といわれている。

会津若松

日蓮宗長寿山本行寺

俗に、覚翁寺と併せて勝浦二大古刹と言われる。
重層建築の釈迦堂に宗祖である日蓮上人の御歯骨を祀ることで知られる。
遠見岬神社(勝浦)

朝市の行われる通りに入る路に面した場所、つまりは勝浦の市街を見下ろす地にある。
祭神は房総開拓の祖神天富命であり、八幡岬突端に鎮座していたが、津波で流され慶長6(1601)年に宮の谷に再建。さらに、万治2(1659)年に現在地に遷座された。現在の社殿は嘉永2(1849)年の造営。
ひな祭りには、社殿へと至る参道の階段が雛壇となることで知られている。

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