青森から浅虫、野辺地と陸奥湾、野辺地に沿って北上する。国道279号線を通る。陸奥湾を隔てて、目指す恐山がある下北半島を遠くに望むことが出来る。野辺地は、戊辰戦争の折に、奥羽列藩同盟を脱退して新政府側に付いた弘前藩と奥羽列藩同盟の盛岡藩・八戸藩が衝突した地だ。この衝突を野辺地戦争という(明治元[1868]年)。攻勢に出たのは盛岡藩側で弘前藩を野辺地から退却させ、大館まで戦線を拡大するも、明治政府軍により降伏を余儀なくされた。 この野辺地は、積出港としての性格もあって、鴻池家、銭屋五兵衛さらには長崎会所の支店が構えられていたことでも知られる。また、9軒の廻船問屋による「(野辺地湊)問屋仲間議定書(安永4[1755])」が締結されていることからも分かるように一大商業地であった。 そういうことに思いを馳せながら下北半島を目指した。 途中、原生林の中を抜けるかのような道を登っていく。地図で確認する限りは間違いはないし、恐山への道はこれしかないはずだから正しいのというのは分かる。それにしても、すれ違う車はいないし、向かう車もいない。これが不安をもたらす。そういう心配にもならない心配をしているうちに、硫黄の臭いが立ちこめ、視界がサーと晴れていく。 ここが恐山だ。 8月とはいえ、台風が通過した直後だったせいか、人がほとんどいない。雨は少しはぱらついていたものの、門を通って地蔵堂へと向かった時には傘は不要になっていた。 この恐山は、貞観4(862)年に慈覚大師が宇曽利山に地蔵堂を建立したのが恐山菩提寺の始まりだと言われている。そもそも、それ以前から山一体が深い信仰を集めた霊場だったと想像される。そうした民間土着信仰に支えられていたため、地蔵堂の管理は専ら土地の修験者の手に委ねられていたという。 その後、下北の騒乱により荒れるに任されたが、享禄3(1530)年に至って曹洞宗円通寺を開山した聚覚が再興した。もっとも、これは円通寺に伝わる由来であり、そのころに円通寺が管理権を確立したことは事実としても享禄3年であったかは不明とされる。 一方、地蔵堂を建立したのが慈覚大師であることから、天台宗蓮華寺も恐山菩提寺の管理権を主張し争論に発展。安永9(1780)年に盛岡藩が円通寺に軍配を上げている。 恐山といえば、イタコ。こう連想する。ところが、意外にも、寛政4年に恐山を訪れた菅江真澄の記録にはイタコはない。イタコが恐山に集まるようになったのは、ずっと時代は下って大正末から昭和初期ころなのだという。 このような営みが縄文時代にあったということにまず驚かされる。続いて、この地が東北であるということに再び驚かされる。これは、今まで教えられてきた、そして信じ切っていた常識の崩れたということになる。 かつて、東北、蝦夷とよばれた地の一部は「日本」と呼ばれたのだという説も一部にある。その呼称を後の征服者である大和王朝が奪ったことになる。それが全て真実だとは言えない。言えないのだけれども、信じたくもなる意識に駆られる。 2001年8月撮影。 天慶の乱によって中央に反旗を翻し関東に独立政権を打ちたてようとした平将門公が朝廷の派遣した俵藤太に討伐され、その首は京都三条河原に晒されたものの、天を舞い空を飛んで、遠く芝崎の地に至ったと伝えられている。 /*東京都千代田区大手町*/ その将門公の首級が降り立ったのが神田明神の地であるとして言い伝えらる。 その後、1307年に真教上人が塚を建造し、さらに延慶2(1309)年に将門公の霊をも相殿に祀るようになり、改めて神田明神と名付けられた。 それから長い間、江戸の鎮守として鎮座していましたが、天正18(1590)年に徳川家康による大規模な城下の造成工事が開始され、元和2(1616)年に江戸城の鬼門の守護神となり移転された後は首塚がこの地に残されることとなった。 湯島や多久にもある孔子廟の純粋中国風の廟。 ここは、日本で唯一、清朝が設立した孔子廟として知られる。光緒葵巳年建、すなわち明治26(1839)年に、清国政府が海外華僑のために大浦居留地に廟所を築いたのが起源。現在の建物は昭和42(1967)年に大修復工事によるもの。 寛永6(1629)年に中国福建省の人々によって建立された黄檗宗の寺。 日本に黄檗宗を広めた隠元禅師の寺として有名。福建省出身者によって建て られたために、福州寺とも呼ばれる。 |