玉川上水

徳川幕府が開かれ、江戸の町が整備されると、その巨大な人口を賄う飲料水の確保が必要になった。
 当初、江戸の町に必要な飲料水を供給したのは井の頭池を水源として開削された神田上水だった。
 しかし、江戸の人口がさらに増えるとこの神田上水では間に合わなくなってくる。そこで、四代将軍家綱は老中松平信綱を総奉行に据えて、町奉行神尾元勝に多摩川から上水を引く計画を立案させる。
 ここで、庄右衛門、清右衛門兄弟を工事担当者として羽村より四谷大木戸までの13里(52q)の大開削工事の下知を出します。
 庄右衛門、清右衛門兄弟は上水完成後に、その功績によって玉川姓を下賜され玉川兄弟として知られるが、実はその素性は定かではない。麹町芝口あるいは深川の町人だったとも、羽村旧名主加藤家の出身で江戸市中に出たのだともされている。
 ともあれ、玉川兄弟は幕府からの6000両の工事資金をもって大工事に着手する。
工事は難航を極め、青柳(現国立市)からの開削工事は水が流れずに失敗、次に福生から掘り始めたものの拝島近辺が砂地だったために失敗と失敗を重ねる。
 そして、承応2年(1653年)4月4日に羽村の堰から再度工事を開始し、この3度目の工事は7ヵ月余の短い期間で11月15日に完成する。これには計画を見直した安松金右衛門の功績があるという。
 この大工事のために玉川兄弟は持っていた財産を全てつぎ込むが、この功績によって玉川姓を与えられたのを始めとして、永年玉川上水役を拝命し200石分扶持となる。
 庄右衛門は元禄8年(1695)、清右衛門は同9年(1696)にこの世を去り、聖徳寺(浅草松葉町)に葬られるも、その子孫は代々庄右衛門、清右衛門を名乗り江戸中期まで玉川上水の管理を行った。
富岡八幡宮

現在の江東区門前仲町にある富岡八幡宮は寛永4(1627)年の造営。
 八幡宮の裏手には古い民家が立ち並ぶ。
 火付盗賊改方長谷川平蔵宣以は、この富岡八幡宮があった一帯で成年時代を過ごしたという。

石川島人足寄場

相生橋から石川島公園を望む。
かつては、この辺りに人足寄場が置かれていた。但し、設置当初は石川大隅守屋敷裏と佃島との間の小島に設置され、佃人足寄場とも呼ばれた。写真の場所(佃2丁目)の付近は大隅守屋敷に当たるが、寛政4(1792)年に大隅守屋敷は御用地となり、この地も人足寄場の油絞場が置かれた。

 人足寄場は、江戸近郊にいた無宿人のうち捕縛されて入墨あるいは敲の刑になったものや吟味したものの無罪が確定したものを収容した施設。
 石川島の人足寄場は寛政2(1790)年に火附盗賊改方長谷川平蔵宣以が老中松平定信に建議して創設された。正式な名称は「加役人足寄場」といった。
 このような無宿人に対して授産をもって懲戒主義の追放刑に代えるという思想は、近代的自由刑の最初といわれるアムステルダムの懲役場に通じるものがあると考えられている。
 もっとも、無宿人対策という意味では、安永6(1777)年に勘定奉行石谷清昌の建議によって佐州水替人足の制が敷かれている(石谷清昌はかつて佐渡奉行を務めた)。これは無宿人を佐渡へと送るものだが、同じく安永9(1780)年には南町奉行所が「無宿養育所(深川茂森町)」を開いている(瀧川博士)。しかし、「無宿養育所」は早く天明6(1786)年には廃止されており、その意味でも機能していたのは「石川島人足寄場」だと言える。
 石川島人足寄場送りは文化2年以後の佐州水替人足と同じく保安処分であった。
 しかし、文政3(1820)年には、江戸払以上の罪を宣告されたもののうちから情状によって5年程度の人足寄場送りという、追放刑の換刑としての懲役場としての性格を持つようになる。この制度は一旦は天保9(1832)年に廃止されるものの、天保11(1834)年には旧に復した。
 収容者は寛政5(1793)年には132人、文化10(1832)年で132人、天保13(1842)年には430人、弘化2(1845)年では508人であった。
 この人足寄場は、松平定信が『宇下の人言』で言及しているとおり一定の成功を収めた。また、天保13(1842)年には老中水野越前守が追放刑の廃止を建議するという画期的なことがことが起こるが、評定所(和田倉御門内辰ノ口評定所)で結論が出ず、次善の策として浅草溜に非人寄場が設けられている。こうした積み重ねの結果を見て、幕府は追放刑に換えて自由刑を科す寄場の設置を江戸以外の天領と大名領に勧めるに至る。
 なお、石川島人足寄場は明治3(1870)年に廃止された。

[参考文献]
[1] 『日本近世行刑史稿』上、日本刑務協会(昭和18年)
[2] 『刑罰詳説』本刑編、佐久間長敬(徳川政刑史料前編第三冊、明治26年、近代犯罪科学全集第13巻「刑罪珍書集」I)
[3] 『刑罰の歴史-日本』、石井良助

[注]
[1] 佃島は向島と呼ばれる干潟だった。後に佃島の住民となる庄屋森孫右衛門をはじめとする摂津国西成郡佃村と大和田村の漁民達は最初、徳川家康の命により日本橋小網町安藤対馬守屋敷内に居住していた。しかし、後に向島を拝領し埋め立てを行って佃島とした。正保元(1644)年のことである。
[2] 石川島も向島同様、森島あるいは鎧島と呼ばれる干潟だった。それを、船手頭石川八左衛門が拝領し屋敷としたことで石川島と呼ばれるようになる。石川家(4000石旗本、相州上矢部)は寛政3(1792)年に石川島から永田馬場(現永田町)に居を移している。
[江戸開府までの武蔵国年表]
天平宝宇年間757-武蔵国分寺(現東京都国分寺市)が建立される。
宝亀2年771武蔵国が東山道から東海道に。
貞観3年861各郡に検非違使が置かれる。
延喜9年909立野牧が勅使牧になる。立野牧は現在の東京都東大和市立野近辺とされる。
天慶2年939平 将門、叛乱す。
天永4年1113武蔵七党の横山党が内記太郎殺害容疑で追捕される。
治承4年1180源 頼朝江戸重長に武蔵国諸雑事を命じる。
元久2年1205坂東平氏秩父氏惣領畠山重忠北条時政により誅殺される。後、畠山家は足利流となる。
嘉禄2年1226河越重員が武蔵国留守所総検校職に任命される。寛喜3(1231)年、検校職に関する職権4ヵ条に関する明法勘状が日奉(ひまつり)実直物部宗光によって提出される。
正和2年1313江戸重通vs江戸政重訴訟で重通が家督を勝ち取る。
正慶2年1333新田義貞軍、鎌倉幕府軍と「久米川の戦い」(現八国山将軍塚)、「分倍河原の戦い」を戦う。
建武2年1335足利直義軍、北条時行率いる北条軍と府中で戦う[中先代の乱]。
文和元年1352新田義興軍、武蔵野合戦[人見ヵ原の戦い]で足利尊氏軍を破る。
延文3年1358新田義興、多摩川の矢口の渡しで江戸遠江守に謀殺される。
応安元年1368平一揆。坂東平氏、武蔵七党の多くが参加。これにより武蔵武士の名門の多くが没落する。
この頃以降、大石氏が守護代として勢力拡大。
応永23年1416「上杉禅秀の乱」に武蔵国が揺れる。豊島氏および南一揆は鎌倉府の足利持氏軍に加勢。南一揆は多摩の中小武士団の連合軍で、その中には武蔵七党の流れを汲む立河雅楽助(多西郡土淵郷[現日野市])の名が見える。
永享10年1438鎌倉公方足利持氏が関東管領山内上杉憲実に敗れる(「永享の乱」)。
享徳3年1454鎌倉公方足利成氏(持氏四男)が山内上杉憲忠を謀殺。「享徳の乱」が勃発する。
康正元年1455太田資長、江戸城築城開始。元江戸城が現在の千代田城の中。
文明8年1476長尾景春、上杉家に叛乱(「長尾景春の乱」)。
翌年、景春党
豊島泰経太田資長(後の道灌)が沼袋原で戦う。豊島氏は石神井城より出陣、太田氏は沼袋城に布陣(現沼袋氷川神社)。豊島氏は大敗を喫し多数の戦死者を残し平塚城に撤退。平塚城落城とともに小机城に篭城するも、要害小机城も太田氏により落城。これによって豊島宗本家は滅亡する。
長享元年1487山内上杉家と扇谷上杉家が覇権を競い戦う[長享の乱]。
関東とりわけ武蔵国は、「禅秀の乱」、「永享の乱」、「享徳の乱」、「長尾景春の乱」によって動揺し、さらにこの「長享の乱」によって荒廃を極めた。
永正元年1504立河原の戦い」で扇谷上杉朝良軍、今川氏親伊勢宗瑞軍が山内上杉顕定軍を破る。伊勢宗瑞は、後の後北条早雲
大永4年1524北条氏綱が「高輪原の戦い」で、扇谷方の江戸太田資高と呼応し、扇谷上杉朝興を下し江戸城入城。扇谷上杉朝興は河越城へ敗走。江戸城には遠山直景富永弥四郎を据える。
永禄4年1561北条氏康上杉謙信方の三田綱秀(現東京都国立市保谷三田館)を討つ。
天正11年1583北条氏照が品川住民に対して「人返し令」発布。
天正18年1590北条軍の八王子城が豊臣軍の前田利長らにより落城。この年、三河の徳川家康が江戸に移封される。家康は樽屋藤左衛門奈良屋市右衛門を町年寄に任命、江戸の都市開発が開始される。
慶長8年1603江戸開府。


松前藩福山城

蝦夷、現在の北海道に成立した唯一の藩である松前藩は幕藩体制では米の収穫出来ない唯一の藩としても知られている。
 藩主の蠣崎家の家紋は武田菱だが、これは藩祖が甲斐武田家と遠戚の関係にあるとされる武田信広が、安東一族の血を引く蝦夷島主の蠣崎家を継いだことによる。
 そもそも、武田(蠣崎)信広が蠣崎家を承継したのはアイヌとの闘いにおいて信広が功績を挙げたからというが、その後の蠣崎氏の前半の歴史はアイヌとの抗争の歴史であったともいえる。

2002年9月16日(月)、松前町松城にて撮影。
現在、檜山地方には海岸に広々とした光景が拡がる。
 そして、こうした風景の背後にある小高い丘にはかつて陸奥国から進出した安東一族の末裔達であり、館主と呼ばれた兵達の残滓である館の跡が数々残されている。