アイヌ文様昔からしばしば北海道を訪ねた関係で、家の中には結構な数だけアイヌ文様があったりする。それに、一時期、そうほんの一時期なんだけどアイヌ文化に関心を持って、本を読んだりもした。そういうわけで、この種類の文様には懐かしさを覚えるというのか、妙に安らぐ。こういう文様は、どうだろう、いわゆる日本古来のものにはないのではないだろうか。それは、素朴だとか純粋だとか、そういう類ではない。この文様の繰り返しが文化を主張しているような気がする。今では、しなやかな文様にラベンダーの香りを感じてしまったりするのかもしれない。残念ながらそうなのかもしれないのは事実だけど、それにしても北海道の大地を感じてしまう。 Franz IttenbachDrachenfels(竜の岩)の城砦で知られるケーニヒスヴィンター(Konigswinter)で1813年に生まれる。19歳のときにデュッセルドルフのアカデミーで校長のFriedrich Wilhelm Schadow(1789-1862)から指導を受けている。このFriedrich Wilhelm Schadowは彫刻家として知られるJohann Gottfried Schadow(1764-1850)の息子。宗教心のある画家は世界中に数多いるが、特にIttenbachは非常に信仰心が厚かったことが知られている。例えば、彼は神話や異教に題材を求めた作品に対して頑なに報酬を求めなかったと言われている。このことは、彼の作品に数枚の肖像画が知られている。しかし、そのような肖像画は彼の作品の中で重要なものではなく、彼の主要作品はあくまでも教会の装飾であると考えられていることからも分かる。このように、Ittenbachは教会の装飾に力を注いでおり、ボンにあるSt. Remigius教会の作品などは特に傑作として知られている。また、「聖家族」と呼ばれる、リヒテンシュタイン大公のために1861年に制作された作品も傑作と言って良いだろう。こうしたことは、父親の血を引いているのかもしれない。 雪舟・秋冬山水「この絵を書いた雪舟は室町時代の人。雪舟は日本で初めて自画像を描いたことでも知られている。そして、ヨーロッパでも同じ頃初めて自画像を描いたアルブレヒト・デュラーが活躍している。そういうわけで、雪舟とデュラーは比較の対象となるわけだね。でも、この『秋冬山水図』はなんと20世紀抽象画家の巨人と呼ばれるピエト・モンドリアンの絵と似ている要素があると言われる」「海を越えるだけではなくて、時代を超えてシンクロし合う画家達といったところかしら。それとも、モンドリアンの抽象画には実は日本の水墨画の隠れた影響があったっていうことになるのかしら」「何がしかの影響は、それはあったのかもしれないけど、時代を超えた芸術家の魂がシンクロしたというのが素直なところじゃないかな。誰が誰の影響を受けたということじゃぁなくてね。そうそう、この山水図も実は南宋の宮廷画家夏珪の『山水画』を基にして書かれたとされているよね」「その場合は、雪舟の『山水図』は夏珪の『山水画』の影響を受けているといえるわね。でも、夏珪の『山水画』と雪舟の『山水図』とでは大分違いがあるわ」「そこの辺りが、雪舟の『山水図』にピエト・モンドリアンの抽象画を見ることが出来るといわれるところ。絵を構成している全ての線が響きあっているんだ」「相似形をしているのよね。まず、右の岩山の線は、左の岩山の線と相似形。岸辺の岩は楼閣前の岩と相似形。右の木立の線は断崖の輪郭線と....」「何だか、よーく見てみるとまだまだありそう。この絵は単なる水墨画じゃぁないことが分かるね。これは、もう20世紀抽象画だって言ったて通用するよ」 コロー(Corot, Camille)[1796-1875]フランスの画家。コローの画風はフランスにおける古典派とロマン派とを繋ぐ位置にある。というわけで、最初は写実主義的な絵を描いていたが、後に印象派の影響もあって見たままを単に写実的に描くのではなく、光を多用した絵画を描いた。 狩野探幽 「京都における徳川幕府の出城とでも言うべき二条城。その二条城における将軍の宿所が国宝にも指定されている『二の丸御殿』。大書院造りの二の丸御殿の中で、諸大名と将軍との対面の儀式が執り行われた。その場を飾るというか、諸大名を睨むかの如くに配されたのが狩野探幽の手による松鷹図。狩野派は室町時代から、宮廷画家とも言える御用絵師としての家柄を誇る名門。しかし、松鷹図を描きあげた時、狩野探幽はわずか22歳。その歳で、狩野派一門11人を率いて二の丸を飾った。22歳というと驚くべきことだけど、そこは狩野派の名門のエリート。狩野派伝来の「粉本」と呼ばれる手本に学び、父である孝信をして天才と言わしめている。その言葉に違うことなく、11歳で駿府城の徳川家康にお目通り。12歳の時に「渡唐天神像」を描いてデビュー。16歳で将軍家の御用絵師としての地位を得る。これは、いくら狩野家が御用絵師の家柄とは言っても異例中の異例と言われている。それだけ探幽に才能があったということだろう。探幽は二条城で狩野派の伝統を受け継ぎながら『黄金の余白』という独自の無の境地にも達している。わずか22歳で、これだから凄い。祖父の狩野永徳も舌を巻くほどの美の力とでも言いましょうか。探幽はただの天才であったわけではありません。努力の天才でもありました。常人を超える努力の跡は、鑑定を依頼された絵画を片端から模写したものとされ、模写の数を一万を越えると言われる『探幽縮図』に見ることが出来ます。 狩野探幽、それは狩野派最後の飛躍と言っても過言ではないでしょう」
昔からしばしば北海道を訪ねた関係で、家の中には結構な数だけアイヌ文様があったりする。それに、一時期、そうほんの一時期なんだけどアイヌ文化に関心を持って、本を読んだりもした。そういうわけで、この種類の文様には懐かしさを覚えるというのか、妙に安らぐ。こういう文様は、どうだろう、いわゆる日本古来のものにはないのではないだろうか。それは、素朴だとか純粋だとか、そういう類ではない。この文様の繰り返しが文化を主張しているような気がする。今では、しなやかな文様にラベンダーの香りを感じてしまったりするのかもしれない。残念ながらそうなのかもしれないのは事実だけど、それにしても北海道の大地を感じてしまう。
Drachenfels(竜の岩)の城砦で知られるケーニヒスヴィンター(Konigswinter)で1813年に生まれる。19歳のときにデュッセルドルフのアカデミーで校長のFriedrich Wilhelm Schadow(1789-1862)から指導を受けている。このFriedrich Wilhelm Schadowは彫刻家として知られるJohann Gottfried Schadow(1764-1850)の息子。宗教心のある画家は世界中に数多いるが、特にIttenbachは非常に信仰心が厚かったことが知られている。例えば、彼は神話や異教に題材を求めた作品に対して頑なに報酬を求めなかったと言われている。このことは、彼の作品に数枚の肖像画が知られている。しかし、そのような肖像画は彼の作品の中で重要なものではなく、彼の主要作品はあくまでも教会の装飾であると考えられていることからも分かる。このように、Ittenbachは教会の装飾に力を注いでおり、ボンにあるSt. Remigius教会の作品などは特に傑作として知られている。また、「聖家族」と呼ばれる、リヒテンシュタイン大公のために1861年に制作された作品も傑作と言って良いだろう。こうしたことは、父親の血を引いているのかもしれない。
「この絵を書いた雪舟は室町時代の人。雪舟は日本で初めて自画像を描いたことでも知られている。そして、ヨーロッパでも同じ頃初めて自画像を描いたアルブレヒト・デュラーが活躍している。そういうわけで、雪舟とデュラーは比較の対象となるわけだね。でも、この『秋冬山水図』はなんと20世紀抽象画家の巨人と呼ばれるピエト・モンドリアンの絵と似ている要素があると言われる」「海を越えるだけではなくて、時代を超えてシンクロし合う画家達といったところかしら。それとも、モンドリアンの抽象画には実は日本の水墨画の隠れた影響があったっていうことになるのかしら」「何がしかの影響は、それはあったのかもしれないけど、時代を超えた芸術家の魂がシンクロしたというのが素直なところじゃないかな。誰が誰の影響を受けたということじゃぁなくてね。そうそう、この山水図も実は南宋の宮廷画家夏珪の『山水画』を基にして書かれたとされているよね」「その場合は、雪舟の『山水図』は夏珪の『山水画』の影響を受けているといえるわね。でも、夏珪の『山水画』と雪舟の『山水図』とでは大分違いがあるわ」「そこの辺りが、雪舟の『山水図』にピエト・モンドリアンの抽象画を見ることが出来るといわれるところ。絵を構成している全ての線が響きあっているんだ」「相似形をしているのよね。まず、右の岩山の線は、左の岩山の線と相似形。岸辺の岩は楼閣前の岩と相似形。右の木立の線は断崖の輪郭線と....」「何だか、よーく見てみるとまだまだありそう。この絵は単なる水墨画じゃぁないことが分かるね。これは、もう20世紀抽象画だって言ったて通用するよ」
フランスの画家。コローの画風はフランスにおける古典派とロマン派とを繋ぐ位置にある。というわけで、最初は写実主義的な絵を描いていたが、後に印象派の影響もあって見たままを単に写実的に描くのではなく、光を多用した絵画を描いた。
「京都における徳川幕府の出城とでも言うべき二条城。その二条城における将軍の宿所が国宝にも指定されている『二の丸御殿』。大書院造りの二の丸御殿の中で、諸大名と将軍との対面の儀式が執り行われた。その場を飾るというか、諸大名を睨むかの如くに配されたのが狩野探幽の手による松鷹図。狩野派は室町時代から、宮廷画家とも言える御用絵師としての家柄を誇る名門。しかし、松鷹図を描きあげた時、狩野探幽はわずか22歳。その歳で、狩野派一門11人を率いて二の丸を飾った。22歳というと驚くべきことだけど、そこは狩野派の名門のエリート。狩野派伝来の「粉本」と呼ばれる手本に学び、父である孝信をして天才と言わしめている。その言葉に違うことなく、11歳で駿府城の徳川家康にお目通り。12歳の時に「渡唐天神像」を描いてデビュー。16歳で将軍家の御用絵師としての地位を得る。これは、いくら狩野家が御用絵師の家柄とは言っても異例中の異例と言われている。それだけ探幽に才能があったということだろう。探幽は二条城で狩野派の伝統を受け継ぎながら『黄金の余白』という独自の無の境地にも達している。わずか22歳で、これだから凄い。祖父の狩野永徳も舌を巻くほどの美の力とでも言いましょうか。探幽はただの天才であったわけではありません。努力の天才でもありました。常人を超える努力の跡は、鑑定を依頼された絵画を片端から模写したものとされ、模写の数を一万を越えると言われる『探幽縮図』に見ることが出来ます。 狩野探幽、それは狩野派最後の飛躍と言っても過言ではないでしょう」