ギリシア独立戦争(1821-29)

1821年、かねてからの宗教的圧迫に苦しんでいたギリシアがオスマン=トルコ帝国に叛旗を翻したことで始まった戦争。翌22年には、ギリシアはオスマン=トルコからの独立を宣言。
トルコ帝国は、ヨーロッパ大陸への足場となるギリシアを手放すまいと、エジプト軍を動員し徹底鎮圧を図る。
これに対して、ギリシアに文化的に親近感を抱く西欧各国の民間人が義勇兵としてギリシア入りし激戦となる。フランスの画家ドラクロワ(Delacroix[1798-1863])、英国の詩人バイロン(Byron[1788-1824])などもギリシア支援を世論に訴えたことで知られる。
民間レベルのギリシア支援運動だけではなく、地政学的に重要な東地中海の覇権を巡って英、仏、露が軍事介入。
1827年には英仏露連合艦隊がオスマン帝国艦隊をナヴァリノ海戦(Navarino)で破ったことでギリシア独立が事実上決定的となる。その後、ロシアとオスマン帝国は29年に黒海北部のロシアへの割譲、オスマン帝国のギリシア独立承認を内容とするアドリアノープル条約(Adrianople)を締結。これによって、独立戦争の幕は降ろされた。30年にはロンドン会議で英仏もギリシア独立を承認する。

カメラ・オブスクーラ camera obscura
 「カメラの前身の暗箱のことを言います。
ラテン語でカメラが箱とか小部屋、オブスクーラは暗いという意味。
起源を遡ると、遡りすぎてどうするのって、言われそうだけど、兎に角、起源らしきものを求めると、ギリシアの哲学者のアリストテレスに行き当たるっていうことになっている。
アラブ世界でも、この原理は知られていたというから、古いとは言えます。
暗い部屋の小さな穴に差し込む日光によって、壁に外の景色が上下左右逆さまに映し出されるという、この原理は、後に画家達がその像をなぞることで正確な描写を得るという具合に利用されるようになります。
画家達に利用されたカメラ・オブスクーラという仕組みは13世紀のヨーロッパで発明され、それが改良されて穴にレンズを埋め込むようになる。
加えて、絞りなんかも付け加えられるようになると、これはもうカメラ。ということで、カメラの原型がカメラ・オブスクーラ。
移った景色を定着させるということに成功したのは、フランスのニエプス(Joseph Nicephore Niepce)で1826年のこと。この世界初とされるヘリオグラフ(Heliograph)と呼ばれるアスファルト写真の撮影には6-8時間の露光が必要だったとされています。
続いて、同じくフランス人のダゲール(L.J.M.Daguerre)が翌年に銀版にヨード臭素の蒸気をあて画像を写し留める、銀板写真(daguerreotype)の実験に成功。1839年に科学アカデミーに報告しています。ダゲレオタイプと呼ばれるカメラの誕生です。
銀板写真はアスファルト写真と違って20分〜30分の露光で十分だったそうです。
蛇足ですが、日本にダゲレオタイプが伝わったのは1848年。
最後の将軍徳川慶喜は大のカメラ好きだったことで知られていますね」

ボッシュ(Bosch, Hiernoymus)[1450頃-1516頃]
ルネサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチと同時代の人。同時代に生きたというだけでなく、このボッシュの才能の輝きもダ・ヴィンチに劣らない。
しかし、ダ・ヴィンチの称号、天才は残念ながら冠せられることはない。別の意味での天才ということだろうか。それは、ボッシュがそれだけ時代の先を行く人であったということかもしれない。
北ネーデルランドのスヘルトーヘンボスに生まれたボッシュは「地獄と怪物の画家」と形容される。天才ではないのだ。

ゴヤ[Goya, Francisco](1746-1828)
スペインを代表する画家。
宮廷画家であり、数多くの肖像画を描いたということで知られている。しかし、パトロンであるスペイン王室に対してへたに媚びた作品を描くということはなかった。あっぱれと言える。どういうところが王室に媚びていないのか。
それは、彼の残した絵の中の冴えない表情を見ればわかる。そこには偉大なる王の家族というより、宮殿に住まいする人々が描かれている。

歌麿
歌麿は蔦屋重三郎に見出され世に出た。当時、美人画の第一人者は鳥居清長とされており、当初は歌麿も清長の画風の強い影響下にあった。しかし、寛政4、5年頃に「婦人相学十躰」「婦人相学十品」を手がけ、続いて「江戸高名美人」(寛政5、6年)、「当世踊子揃」(寛政5。6年)、「歌撰恋之部」などの大首絵をものにし完全に清長の画風の影響を脱したとされる。
 こうした大首絵を次々と出して独自の画風を確立していった背景としては、立像や坐像の美人画を得意とした鳥文斎栄之の向こうを張ったということがある。
こうして、立像・坐像の鳥文斎栄之、大首絵の歌麿という評価を得るようになる。しかし、歌麿はここで留まるようなことはなく。鳥文斎栄之の得意とする坐像・立像の分野でも「青楼十二時 續」、「名取酒六家撰」を出して浮世絵の歌麿となる。
名声を欲しいままにした歌麿も、いわば正統派絵師集団である狩野派や土佐派に比べると見劣りすることは否めなかった。江戸浮世絵を担ったのは、いわゆる御用絵師とは異なる流れであり、その始まりは菱川師宣とされる。この流れは鳥居清信・鳥居清長といった鳥居派に引き継がれる。そして、鈴木春信に至って確立されたとされる。その後、歌川豊国(1769-1825)や歌川広重を生み出し、伊東深水へと至る歌川派と宮川長春(1682-1752)から始まり勝川春章や葛飾北斎(1760-1849)、渓斎英泉(1790-1848)を世に放った葛飾派が出てくる。歌麿は、こうした流れの中にすらいない。このような御用絵師でもなく、特定流派にも属さない独立派としては、他に東洲斎写楽が知られている。
 そうしたこととは関係なく、歌麿の大衆の絵師としての地位は揺るぎの無いものとなっていく。それ故に、享和期になり、大衆の間で浮世絵ブームが盛んとなると大衆に迎合した構図を書かざるを得ない状況に追い込まれていく。そして、不幸なことに、このために幕府から咎めを受け、入牢のうえ、50日の手鎖の刑に処せられる。そして、文化3年9月に世を去った。