Raffaello Sanzio(1483-1520)

暗記物は好きだよね。嫌い?
でも、テストの時は、暗記したものを吐き出すように答案に書けばそれでOK。すっきりするっていうもの。その点、考えなくちゃいけないものっていうのは大変。なぜって、折角暗記していっても、まるで駄目ってことがあるからね。
で、ルネサンスの巨匠といったら、ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチと、そしてラファエロでしょ。
もう、パブロフの犬状態。
こうやって覚えているってことは、結構、苦痛に思っていた暗記も、それほど馬鹿にしたもんじゃぁないってことかな。
ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチと、って具合に一区切り置いたのはそれなりに意味があるよ。
ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチっていうと科学的っていうのか、ルネサンスの知識人っていうと、芸術にも科学にも文藝にも優れた、いわば万能の転載を指し示すけど、この2人にはそれがぴったりと似合う。画風もまさに科学的って感じ。科学的で精確であるということは良いのだけれども、そうした科学的なものが人々に安らぎを与えるのかっていうと必ずしもそうではないね。
もっとも、これを読んでいる人の中には、毎日数式を見ないと安心して食事も喉に通らないとか、曖昧なものの言い方に我慢がならないっていう人もいると思う。それはそれで良いじゃぁないのかな。でも、ほっとする絵を書いたっていう形容がしっくりくるのがラファエロだって言えるのじゃない?
で、ラファエロは芸術の町として知られるUrbinoの郊外でオンギャーと生まれているんだ。生まれたときに既に絵筆を持っていたか、あるいはお母さんが胎教を兼ねて絵を描いていたかは分からない。
ラファエロの最初の先生は父親。この時に目覚めんだろうね。う〜ん、父親の愛情が息子の才能を開花させたって素晴らしいじゃぁないか。
この父親の偉いところは、それだけじゃぁない。オレの息子はでっかいぞって気付くと、可愛い息子は立たせろってばかりに、Verrocchio や Ghirlandaio と同様に当時の芸術家の傑物と考えられていたPietro Perugino(1478-1523)のもとに送った。
ここで、才能豊かなラファエロは一回りも二回りも皮が剥けるんだね。皮が剥けて大人になるって、そういうこと。
ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチも師匠について勉強したんだけど、この二人は早くから自分の独自のスタイルっていうのを確立していくのに対して、ラファエロの場合は幾分か謙虚な天才だったというべきだろうね。
ラファエロの作品には、先生だったPeruginoの影響がかなり見られるんだ。
どの位影響が見られるかって?
今度、町に美術展がやってきたら見比べてみてよ。
えっ?
二人の絵を並べて見る機会なんてない?
それは分かるよ。ボクだって、片田舎に住んでいるからね。なんていったって、耳を澄ませば、食用蛙のグウァーグァーて、お世辞にも美しいとは言えない合唱が聞こえるんだからね。
おっと、話が横路にそれた。
えーと、ラファエロの作品とPeruginoの作品の類似性の話だった。
まぁ、まったく瓜二つっていうような意味ではないのだけど、Peruginoの作品の幾つかは、それらがラファエロ14歳の頃のものだという証拠が出てくるまでは、Peruginoの作品ではなくラファエロの作品であると考えられていたなんて逸話があるってことで十分でしょ。専門家でそうなんだからね。
でもね、このラファエロ、フィレンツェにも行っているんだ。Peruginoの、オレの弟子は天才ですよって推薦状を携えてね。当時、既に巨匠という名を欲しいままにしていたミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチが現役で活躍していた。普通だと、しぼんじゃうよ、まったく。だって、ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチって本当の天才なんだもの。それに比べたらラファエロは「これからの」天才でしょ。そこで、萎んじゃわなかったのがラファエロの偉いとこでもあるね。どんどん知識を、それこそスポンジのように吸収していく。だからこその天才って言えるね。だって、終には、二人を超えた画風を確立するんだから。
ラファエロはダ・ヴィンチから明暗法(chiaroscuro)などを学び取る。特にお気に入りだったのは「Madonna and Child with St. Anne」っていう作品。
1507年には、「Deposition of Christ」っていう作品を描くためにフィレンツェを去ってローマに赴く。実は、この作品にはミケランジェロの影響が強く滲み出ている。

Georges de La Tour (1593-1652)
芸術家というのは報われないもの。
生前は見向きもされなかったのに、死んでから一躍天才と持ち上げられた人は案外と多いもの。
ゴッホなんかはその典型例と言える。
だけど、逆のケース、つまり、生前は天才と持て囃されたんだけど、死んだ後は完全に忘れ去られてしまって、「誰それ?」という分類に括られてしまうという場合もある。
ラ・トゥールは、丁度、その中間といったところ。
生前も有名だったし、今でも有名。
でも、評価の中休みがあった画家。
17世紀のフランスで活躍して20世紀初頭に再発見された。
その画風から「夜の画家」なんて呼ばれることもある。そうそう、今ならパリは芸術の都だし、芸術の最先端を行っているっていうイメージがあるのだけど、17世紀のフランスっていうのはまだまだ最先端っていう感じではなかった。
っていうのはともかく、非常に古風な芸術を重んじていた当時のフランスで、なんとあの殺人の罪に問われて波乱万丈の人生を強烈に送ったカラバッジョの影響を受けたとされている。
でもね、ラ・トゥールの作品を見ていると、どうも激情のカラバッジョの影響が見えてこない。こう思うのは、ボクだけかな?
ロレーヌで生まれたって言われ、パン職人の息子だったらしいけど、何せ、18世紀は忘れ去られていたから、悲しいかな詳しいことは分からない。
でも、繰り返すけど、結構人気があった画家だったということは確か。
何ていたって、ルイ13世公認画家なんだから。
もう、お墨付きバリバリって、そういうことでしょ。
ちょっと、ややこしいんだけど、息子のエティエンヌ・ド・ラ・トゥールも画家で、しかも、貴族にまで成り上がっている。
あっ、成り上がっているっていう表現は良くないかも。でも、貴族に取り立てられた後は絵なんかどうも書いていないようだし、画家だったってことも隠そうとしたなんて言われている。
それが本当なら、まぁ、成り上がったっていう表現も許されるでしょ。
それは、息子の話。

J.A.D. Ingres (1780-1867)
19世紀フランスの新古典派の画家。
モントーバン(Montauban)で、蛙の子は蛙というわけではないけど、一応は芸術家の子供として生を受ける。
父親は名を留めるには至らなかったものの、子供のIngresのほうはJacques Louis Davidの門を叩いたのが幸いしたのか、めきめきと才能を現した。
これを契機に、ローマに行き(1806-1820)、芸術家としての腕を磨く。
ローマでの成果っていうのは、それだけじゃなく、ルネサンスの巨匠ラファエロの影響を大きく受けたってところにある。
ラファエロっていうのは、本当に後世にいろんな人に大きな影響を与えつづけている。
だから、Ingresの画風には先生のLouis Davidとラファエロの影響が色濃く存在しているってことになるわけ。
そして、故国フランスへと戻ってくる。
フランスでは、Eugene Delacroixの新ロマン主義と対立する新古典主義のドンと見なされるようになるんだ。この二人、生涯のライバルで、1855年のパリ万国博覧会では揃って金賞に輝いている。
まぁいい出だしだ。
と言いたいところだけど、絵の代金を巡るトラブルがあったりして、もうパリはいやだっていうんで、フランス・アカデミーの在ローマ責任者となって、再びローマへ。
さしずめ、2つの顔を持つ男ってところ。
ラファエロの影響っていうのは非常に大きいって言ったけど、このIngresの後世への影響も無視できないほどすごく大きい。
だって、ルノアールや、あのピカソだってアングル(Ingres)の影響を受けているんだから。

初期ゴシック(Gothic)
12世紀に聖堂建築の革命が興る。12世紀当初は「現代様式」と呼ばれる。
ゴシックの名称はローマ帝国から見て辺境の民であるゴート人に由来する。但し、この時期の「現代様式」が「ゴシック」と呼ばれるようになったのは15世紀ルネサンス期のイタリアでのこととされている。
12世紀の西部ヨーロッパでは、他人の畑、自分の畑の区別なく土地を「春耕地」、「秋耕地」、「休耕地」に三分割する三圃式(さんぽしき)農法が始まった時期、農業革命が開始された時期に一致している。
初期ゴシックの時代は、このような背景のもとにあった。

ドゥッチオ[Duccio di Buoninsegna](1255-1319)(伊)
シモーネ・マルティーニ[Somone Martini](1285-1344)(伊)
ピエトロ・ロレンツェッティ[Pietro Lorenzetti](1280-1348)(伊)
アンブロジオ・ロレンツェッティ[Ambrosio Lorenzetti]](1290ー1348)(伊)
チマブーエ[Cimabue](1240-1302)(フィレンチェ)
ジオット[Ambrogio Bondone Giotto](1267 - 1337)(伊)
ジャン・ピュセル[Jean Pucelle](1320-1350)(仏)

BOUTS
「Rogier van der Weyden(1399/1400-1464)の画風を承継したオランダの画家で1415年にチューリップの国オランダはハーレム(Haarlem)で生まれているね。
ハーレムと言えば花祭に花車。花花花。
生まれはハーレムだけど、活動の場所っていうか生活を送ったのはルヴェン(Louvain)。今なら、ブリュッセルから電車で一時間足らずの大学都市で、ルーバンラヌーブ(Louvain-La-Neuve)大学があることで知られている。」
「大学都市というような側面を持つようになったのは17世紀初め頃ね。
とにかく歴史ある都市なわけだけど、惜しくも1914年8月19日にナチス・ドイツに無血占領されてしまって街は破壊されてしまっている」
「でも、Boutsの描いた絵は残っている。
ルヴァンに来たのは何歳の頃?」
「53歳のとき、つまり1468年。この時に、ルヴァン市の画家になって『最後の晩餐』とか『the Justice of Emperor Otto』などを製作しているわ」
「彼はルヴァンでいわゆるフラマン貴族(Flemish aristocrats)から請負って絵を描いている」
「Boutsの画風は二人の息子Dieric(1448-90/91)とAelbrecht(1450/60-1549)に受け継がれているね」
「息子のDiericの仕事と彼自身の仕事の区別が難しいんだよね。
名前も名前だから」