El Greco(1541 - 1614)「エル・グレコって呼ばれているけど、これは渾名。まぁ、彼だけが特別ってわけじゃぁなくて、有名な画家の中には結構渾名が通り名になっているような人がいる。ふとっちょとかなんとか。で、エル・グレコっていうのは、想像通り、ギリシャ人という意味。本当の名はDomenikos Theotokopoulos。きちんと発音しろって?それは、どうかご勘弁を。生まれはクレタ。何か良いところで生まれたね。そこでずっと過ごしていて、ギリシャで活躍していたら、エル・グレコなんて呼ばれなかっただろうね。だって、ほら、そこいらじゅうがエル・グレコでしょ。そう、生まれはギリシャなんだけど、活躍したのはスペインなんだ。暖かい所が好きなのかな。ギリシャで学んでスペインで花開いて、後はどこにも行かなかったというわけではなくて、イタリアに学んでいる。お師匠さんはヴェニスにいたTitian。このイタリアでの修行時代にラファエロだとかミケランジェロなんかのイタリアルネサンスの様式の勉強を怠り無くやっている。基礎はばっちり。基礎はやっぱり大事だよ。先人が築いてくれた基礎の上に創造性ってものが重なっていく。イタリアで研鑚を積んだエル・グレコは、故郷のギリシャに戻るのではなくて同じ地中海でもスペインに行く。トレドでいい仕事をする。彼の肖像画は貴族に大受けした。大成功ってわけだ。彼は、見るものが注目すべきところにスポットを当てるような個性的な画風を確立した。でも、それは、あまりにも個性的だった。というより、あまりにも、その時代にあっては進みすぎていたというべきかな。そういうわけで、彼の画風を継承するような流れというのは、すぐには生まれるということはなかった。でも、彼の絵と現代絵画とを見比べると分かるよね。そう、彼は現代絵画に最も影響を与えた人物の一人だってことは疑うべきもない」 Pieter Brueghel the Elder(1525-1569)「ずばり、農民画家。もう説明なんか、それだけで良いって言っても過言じゃないでしょ。って、ここで終わりにしたいくらい分かりやすいんだけど、ちょっとだけくどいのを我慢してもらおう。彼が描いた一連の絵を見てもらうと分かるかもしれない。農民画家って呼ばれているけど、彼はあくまでも冷静な観察者なんだ。彼自身は当時の教養人だった。ベルギーのフラマン地方で活躍したんだけど、一応、当時の芸術の本場であるイタリアにも留学している。でも、感化されてはいなくて、デューラーとともに、いわゆる北方ルネサンスと呼ばれる流れを形作ったことで知られている。そうそう、彼の息子も画家なんだ。彼の絵を広めたっていう大きな貢献をしたのは息子。だから、名前にElderって付いているわけ」 フラマン地方「近代絵画の基礎的な流れを作ったブリューゲルはフラマンの画家。ベルギーのって言いたくなるけどね。当時はベルギーという国はないから。あくまでもフラマンの画家。フラマン地方のということになる。フラマンというのも国ではないから。ちょっと時代を遡ってみると、1515年にスペインのカール5世(Charles-Quint、Charles X)が現在のベルギーとオランダを含む17州地方を支配していたんだ。17まとめてPay-Basって呼ばれていた。スペインというと、レコンキスタの運動で力を付けてきた国でしょ。当然、カトリック。一方の17州はっていうと、プロテスタント諸派に属する人々が結構いた。全員を国外に追い出すということは到底出来そうもないから、カール5世は自分にとっての次善の策として、プロテスタントの人々を出来る限りスペイン本土から遠ざけようって考えた...(本当にそれだけ?)....ということで、17州のキタにはプロテスタント、ミナミにはカトリックという人工的区分が出来上がる。次のフェリペ2世(Philippe U)の時代には対プロテスタント政策が一層厳しくなったから、ますますキタとミナミの区別がはっきりしたもになってしまう。そうこうして、1579年には北部7州が「ユトレヒト同盟」っていう名のもとに団結して、81年にはフェリペ2世に叛旗を翻す。オランダ独立戦争だ。この戦いで一族を挙げて戦いを主導したのがオレンジ公ウィリアム1世(Guillaume d'Orange)。ドイツ系だけど、現在のオランダ王室の祖。オランダはこの戦いで勝利を収め、1648年のミュンスター条約で独立を勝ち取る。このオランダ王国は独立の余勢をかって世界に躍進したことは良いよね。これに対して南部諸州の苦難はまだ続く。南部は、フラマン地方、ワロン地方からなっていて、ワロンというのはフランスに近い地方のこと。いろいろな国からの支配を受けつづて、そのおかげで国民国家と呼ばれるものを形成する基礎作りが非常に遅れてしまうんだ。言葉の問題もそう。地方地方でバラバラのまま共通語というものを形成する暇がなかった。鶏と卵みたいになっちゃうけど。北部のオランダにも、ナポレオン戦争の後で支配を受けている。これは、17州のキタとミナミの再統一ともいえる一大事件だったんだけど、もうこの時代にはキタとミナミは全くの別物になってしまっていた。当然、フラマン地方を中心とするミナミはオランダ王国の『支配』を喜ぶわけがない。他の国に支配されるよりも、自分と同じ立場のはずの人々に支配されるっていうのは心理的にちょっとね。ここに至って、フラマン地方などのミナミを自分達をミナミとして一体として考えるようになる。そうなってくると、もう選択肢は見えてくる。そう、独立を目指すんだ。フラマン地方、ワロン地方揃って、1830年に立ち上がり、オランダ勢力をミナミから追い出すことに成功。ようやく独立を果たすことになる。ついでだけど、新生ベルギーは王政を選択するけど、王にはフラマン地方、ワロン地方の貴族ではなくドイツ人であったレオポルドを立てたというのも実情を表しているっていえるね」 秦陵銅車馬 「中国の再統一を成し遂げた政、つまり始皇帝の墳墓は中国史上で最も有名な皇帝廟だね。ぼくなんか、どうも徳川家康と始皇帝を重ねて見てしまう。ほら、始皇帝も家康も幼い時に力の有る他国の人質になっているでしょ。だから、時代なんか全く無視して重ねてしまうのだけどね。始皇帝陵は、さしずめ、日光東照宮」 「わかるような気がする。で、その始皇帝陵だけど、『史記・始皇帝本紀』の記述によると、始皇帝陵はなんと70万人が37年の歳月をかけて造営したらしいわ。多少の誇張はあるにしても、1、2、3号兵馬俑を見ると頷ける」 「始皇帝兵馬傭地下軍陣だね。あれは壮大としか表現出来ない。もう何年も前に博物館の特別展示で一部を見たけど、凄いの一言。確か、1号坑は右軍歩兵軍陣、2号坑は指揮部、3坑は左軍車歩騎混編軍陣っていうんだよね、どれも本物のよう」 「兵馬俑は東側よね、それに対して秦陵銅車馬は西側から出土しているわね。車体がブロンズで、装飾は金銀。かなり正確に実物を模して制作されたもので一台がなんと1000キロもある。2台一組で、大型の彩色の絵が描かれている」 「銅車馬で驚くべきは、それだけじゃないよ。二台合わせて、構成部品がなんと3000以上。加えて金銀の装飾品も1000点を軽く越えるという中国古代美術の一大傑作だ」 Egon Leo Adolf Schiele,1890-1918 「シーレというとクリムトと同じ頃に活躍した表現主義の画家ね」 「クリムトね。クリムトは結構好きなんだよ。あの独特の画風がなんとも言えない。シーレとクリムトとの出会いは1907年。以来、クリムトの影響を大きく受けることになるね」 「エロチシズムという点でいうと、クリムトよりもシーレのほうが強いわね。確かにクリムトの影響は大きいけれども、シーレの個性は強烈のように思えるわ」 「強烈ということにには時代背景にも一因があるのかもしれないよ。何せ、シーレとあのヒトラーは同じ美術学校を受験していたらしいからね。もっとも、この受験が二人の人生を大きく分けることになる。ヒトラーは失敗して画家として歩むことに自信を失くす。シーレは画家になる」 「時代背景ということは、どの画家にも言えるんじゃないかしら?でも、シーレは現代的な芸術なんてありはしない、なんて言っているよ」 「そこが、シーレのシーレらしいところっていうんじゃないかな。芸術家というのは一般人の基準では中々理解できないところもある。シーレは未成年者略取で逮捕されたりもしている。こういう行動は、いろいろとあったにせよ、理解できるということは出来ないね」 「芸術家は作り出す作品で評価してあげないと、いけないんじゃない?もちろん、作品を深く理解するためには芸術家の人生を探るということも必要にはなるでしょうけど」 「そうだね。そういうことは、芸術家に限ったことではないね。その当時は極悪人としてレッテルを貼られた人でも後世に偉人として見直された人というのは沢山いるから。ちょっと、シーレの話から逸れたけど、シーレの輝きは短かったために余計に光っているように思える」 「確かに、短すぎたわね。スペイン風邪にかかって亡くなった奥さんの後を追う様にして、同じ病気で亡くなったのは28歳のときだものね」
「エル・グレコって呼ばれているけど、これは渾名。まぁ、彼だけが特別ってわけじゃぁなくて、有名な画家の中には結構渾名が通り名になっているような人がいる。ふとっちょとかなんとか。で、エル・グレコっていうのは、想像通り、ギリシャ人という意味。本当の名はDomenikos Theotokopoulos。きちんと発音しろって?それは、どうかご勘弁を。生まれはクレタ。何か良いところで生まれたね。そこでずっと過ごしていて、ギリシャで活躍していたら、エル・グレコなんて呼ばれなかっただろうね。だって、ほら、そこいらじゅうがエル・グレコでしょ。そう、生まれはギリシャなんだけど、活躍したのはスペインなんだ。暖かい所が好きなのかな。ギリシャで学んでスペインで花開いて、後はどこにも行かなかったというわけではなくて、イタリアに学んでいる。お師匠さんはヴェニスにいたTitian。このイタリアでの修行時代にラファエロだとかミケランジェロなんかのイタリアルネサンスの様式の勉強を怠り無くやっている。基礎はばっちり。基礎はやっぱり大事だよ。先人が築いてくれた基礎の上に創造性ってものが重なっていく。イタリアで研鑚を積んだエル・グレコは、故郷のギリシャに戻るのではなくて同じ地中海でもスペインに行く。トレドでいい仕事をする。彼の肖像画は貴族に大受けした。大成功ってわけだ。彼は、見るものが注目すべきところにスポットを当てるような個性的な画風を確立した。でも、それは、あまりにも個性的だった。というより、あまりにも、その時代にあっては進みすぎていたというべきかな。そういうわけで、彼の画風を継承するような流れというのは、すぐには生まれるということはなかった。でも、彼の絵と現代絵画とを見比べると分かるよね。そう、彼は現代絵画に最も影響を与えた人物の一人だってことは疑うべきもない」
「ずばり、農民画家。もう説明なんか、それだけで良いって言っても過言じゃないでしょ。って、ここで終わりにしたいくらい分かりやすいんだけど、ちょっとだけくどいのを我慢してもらおう。彼が描いた一連の絵を見てもらうと分かるかもしれない。農民画家って呼ばれているけど、彼はあくまでも冷静な観察者なんだ。彼自身は当時の教養人だった。ベルギーのフラマン地方で活躍したんだけど、一応、当時の芸術の本場であるイタリアにも留学している。でも、感化されてはいなくて、デューラーとともに、いわゆる北方ルネサンスと呼ばれる流れを形作ったことで知られている。そうそう、彼の息子も画家なんだ。彼の絵を広めたっていう大きな貢献をしたのは息子。だから、名前にElderって付いているわけ」
「近代絵画の基礎的な流れを作ったブリューゲルはフラマンの画家。ベルギーのって言いたくなるけどね。当時はベルギーという国はないから。あくまでもフラマンの画家。フラマン地方のということになる。フラマンというのも国ではないから。ちょっと時代を遡ってみると、1515年にスペインのカール5世(Charles-Quint、Charles X)が現在のベルギーとオランダを含む17州地方を支配していたんだ。17まとめてPay-Basって呼ばれていた。スペインというと、レコンキスタの運動で力を付けてきた国でしょ。当然、カトリック。一方の17州はっていうと、プロテスタント諸派に属する人々が結構いた。全員を国外に追い出すということは到底出来そうもないから、カール5世は自分にとっての次善の策として、プロテスタントの人々を出来る限りスペイン本土から遠ざけようって考えた...(本当にそれだけ?)....ということで、17州のキタにはプロテスタント、ミナミにはカトリックという人工的区分が出来上がる。次のフェリペ2世(Philippe U)の時代には対プロテスタント政策が一層厳しくなったから、ますますキタとミナミの区別がはっきりしたもになってしまう。そうこうして、1579年には北部7州が「ユトレヒト同盟」っていう名のもとに団結して、81年にはフェリペ2世に叛旗を翻す。オランダ独立戦争だ。この戦いで一族を挙げて戦いを主導したのがオレンジ公ウィリアム1世(Guillaume d'Orange)。ドイツ系だけど、現在のオランダ王室の祖。オランダはこの戦いで勝利を収め、1648年のミュンスター条約で独立を勝ち取る。このオランダ王国は独立の余勢をかって世界に躍進したことは良いよね。これに対して南部諸州の苦難はまだ続く。南部は、フラマン地方、ワロン地方からなっていて、ワロンというのはフランスに近い地方のこと。いろいろな国からの支配を受けつづて、そのおかげで国民国家と呼ばれるものを形成する基礎作りが非常に遅れてしまうんだ。言葉の問題もそう。地方地方でバラバラのまま共通語というものを形成する暇がなかった。鶏と卵みたいになっちゃうけど。北部のオランダにも、ナポレオン戦争の後で支配を受けている。これは、17州のキタとミナミの再統一ともいえる一大事件だったんだけど、もうこの時代にはキタとミナミは全くの別物になってしまっていた。当然、フラマン地方を中心とするミナミはオランダ王国の『支配』を喜ぶわけがない。他の国に支配されるよりも、自分と同じ立場のはずの人々に支配されるっていうのは心理的にちょっとね。ここに至って、フラマン地方などのミナミを自分達をミナミとして一体として考えるようになる。そうなってくると、もう選択肢は見えてくる。そう、独立を目指すんだ。フラマン地方、ワロン地方揃って、1830年に立ち上がり、オランダ勢力をミナミから追い出すことに成功。ようやく独立を果たすことになる。ついでだけど、新生ベルギーは王政を選択するけど、王にはフラマン地方、ワロン地方の貴族ではなくドイツ人であったレオポルドを立てたというのも実情を表しているっていえるね」
「中国の再統一を成し遂げた政、つまり始皇帝の墳墓は中国史上で最も有名な皇帝廟だね。ぼくなんか、どうも徳川家康と始皇帝を重ねて見てしまう。ほら、始皇帝も家康も幼い時に力の有る他国の人質になっているでしょ。だから、時代なんか全く無視して重ねてしまうのだけどね。始皇帝陵は、さしずめ、日光東照宮」 「わかるような気がする。で、その始皇帝陵だけど、『史記・始皇帝本紀』の記述によると、始皇帝陵はなんと70万人が37年の歳月をかけて造営したらしいわ。多少の誇張はあるにしても、1、2、3号兵馬俑を見ると頷ける」 「始皇帝兵馬傭地下軍陣だね。あれは壮大としか表現出来ない。もう何年も前に博物館の特別展示で一部を見たけど、凄いの一言。確か、1号坑は右軍歩兵軍陣、2号坑は指揮部、3坑は左軍車歩騎混編軍陣っていうんだよね、どれも本物のよう」 「兵馬俑は東側よね、それに対して秦陵銅車馬は西側から出土しているわね。車体がブロンズで、装飾は金銀。かなり正確に実物を模して制作されたもので一台がなんと1000キロもある。2台一組で、大型の彩色の絵が描かれている」 「銅車馬で驚くべきは、それだけじゃないよ。二台合わせて、構成部品がなんと3000以上。加えて金銀の装飾品も1000点を軽く越えるという中国古代美術の一大傑作だ」
「シーレというとクリムトと同じ頃に活躍した表現主義の画家ね」 「クリムトね。クリムトは結構好きなんだよ。あの独特の画風がなんとも言えない。シーレとクリムトとの出会いは1907年。以来、クリムトの影響を大きく受けることになるね」 「エロチシズムという点でいうと、クリムトよりもシーレのほうが強いわね。確かにクリムトの影響は大きいけれども、シーレの個性は強烈のように思えるわ」 「強烈ということにには時代背景にも一因があるのかもしれないよ。何せ、シーレとあのヒトラーは同じ美術学校を受験していたらしいからね。もっとも、この受験が二人の人生を大きく分けることになる。ヒトラーは失敗して画家として歩むことに自信を失くす。シーレは画家になる」 「時代背景ということは、どの画家にも言えるんじゃないかしら?でも、シーレは現代的な芸術なんてありはしない、なんて言っているよ」 「そこが、シーレのシーレらしいところっていうんじゃないかな。芸術家というのは一般人の基準では中々理解できないところもある。シーレは未成年者略取で逮捕されたりもしている。こういう行動は、いろいろとあったにせよ、理解できるということは出来ないね」 「芸術家は作り出す作品で評価してあげないと、いけないんじゃない?もちろん、作品を深く理解するためには芸術家の人生を探るということも必要にはなるでしょうけど」 「そうだね。そういうことは、芸術家に限ったことではないね。その当時は極悪人としてレッテルを貼られた人でも後世に偉人として見直された人というのは沢山いるから。ちょっと、シーレの話から逸れたけど、シーレの輝きは短かったために余計に光っているように思える」 「確かに、短すぎたわね。スペイン風邪にかかって亡くなった奥さんの後を追う様にして、同じ病気で亡くなったのは28歳のときだものね」