マルボルクのドイツ騎士団の城
Castle of the Teutonic Order in Malbork
文化遺産
登録年 1997年
ヨーロッパ >> ポーランド
data:ポーランド 2004/10/20
ドイツ騎士団(ドイツ語 : Deutscher Orden)は、キリスト教の騎士修道会。正式名称はチュートン人の聖母マリア騎士修道会(ラテン語 : Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum)といい、本来は12世紀後半のパレスチナで聖地巡礼者の保護を目的として設立されたが、のちにバルト海沿岸のプロイセンに移り、ドイツ人の東方植民とバルト地域のキリスト教化に大きな役割を果たした。
ドイツ騎士修道会の前身は、エルサレム王国がアイユーブ朝の攻勢の前にパレスチナの領土を失いつつあった12世紀後半に、十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するために、ブレーメンやリューベックの商人たちが資金を提供してアッコン(アッコー、またはアッカ、アクレ)に設立されたエルサレムの聖母マリア・チュートン病院である。チュートン、すなわち本来のラテン語発音によるテウトニーとは、紀元前2世紀末にイタリア半島に侵入しようとして古代ローマを脅かしたゲルマン人の部族、テウトネス族のことで、当時のラテン語でドイツをこう呼んだ。この病院を運営した兄弟団は1191年に教皇クレメンス3世によって公認され、教皇庁の保護下に置かれたが、まもなく本拠地を置いていたアッコンも陥落したために、1198年に騎士身分出身の騎士修道士を中心とする騎士修道会に再編成され、テンプル騎士団を模範とし、総長を頂点として軍事的に編成された組織化を行った。1199年、教皇インノケンティウス3世によってドイツ騎士団は騎士修道会として公認され、正式にその歴史を開始する。
しかし、パレスチナにおけるキリスト教勢力の後退とともに、設立間もないドイツ騎士団は活動の場をパレスチナに充分に見出すことができなかった。そこで、1210年に第4代総長に就任した騎士ヘルマン・フォン・ザルツァはハンガリー国王アンドラーシュ2世の招きに応じて翌1211年にハンガリーに移り、ハンガリー領トランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として付与、トランシルヴァニア周辺に住む非キリスト教徒の異民族クマン人に対する防衛を委ねた。この経験が、後に聖地の防衛者ではなく異教徒に対する尖兵としてのドイツ騎士団の性格を決定付けることになる。
ヘルマン・フォン・ザルツァは優れた政治家であり、やがてハンガリー王国に対する従属からドイツ騎士団を解き放ち、トランシルヴァニアの一角に独立したドイツ騎士団国をつくりあげようとした。1224年、ヘルマンは教皇ホノリウス3世にプルツェンラントをハンガリー王国から切り離させ、教皇支配地とすることを要請し、教皇に教皇直轄領と宣言させることに成功した。しかしこの動きに激怒したアンドラーシュは教皇の命令を無視し、1225年、騎士修道会をトランシルヴァニアから追放した。
本拠地を失ったドイツ騎士団であったが、同年の暮れには、今度はポーランドに割拠する諸公のひとつマゾフシェ公国に招かれ、バルト海沿岸のプロイセン地方においてこの地方の住民である異教徒プロイセン人に対する防衛を担うよう要請された。前回の失敗に懲りたヘルマンは周到に準備を行い、神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と交渉して騎士団にプロイセン人の領土を襲撃し全プロイセンを征服、領有する権利を認めた皇帝の金印勅書を獲得した。1230年には教皇グレゴリウス9世からプロイセンの異教徒たちを打ち倒すことが神の意にかない、罪を贖うことができる救済行為であるとして正当化する教勅を与えられ、満を持してプロイセンの征服に着手する。
騎士団は1283年まで50年以上をかけて徐々にプロイセンに征服地を広げ、プロイセン人に異教の信仰を放棄させた。さらに騎士団国家の支配するプロイセンにはドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設された。このような宗教的・人口的な圧力の前にプロイセン人がもともと話していたバルト諸語の古プロイセン語は消滅に向かい、プロイセン人は民族的にドイツ人やポーランド人などに同化してゆく。
プロイセンのドイツ騎士団国家の本拠地は世界遺産で知られるマリエンブルク(現マルボルク)に置かれ、騎士団の指揮系統に基づいた厳格な統治機構が築かれた。騎士団国家は14世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西ヨーロッパに対する穀物の輸出が主要な産業となり、経済的にはハンザ同盟と深く結びついた。ケーニヒスベルク(カリーニングラード)、ダンツィヒ(グダニスク)はドイツ騎士団のもとで発展を遂げた都市である。いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。
騎士団は1237年にはリヴォニア(ラトヴィア)の征服を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収合併し、現在のバルト三国における征服事業にも着手する。しかし、この過程ではエストニアの領有をめぐってデンマークと争うことになり、また東の東方正教徒のルーシ(ロシア)との争いではアレクサンドル・ネフスキー率いるノヴゴロド公国の軍に破られた。しかし、プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣にあたるリトアニアでは異教の信仰を守ったまま現地の有力者を大公とするリトアニア大公国が誕生し、ドイツ騎士団はこの強国との間で恒常的な戦闘を続けることになる。
14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配はプロイセンの在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、彼らはポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになった。ポーランドもまた騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威をないがしろにし、ポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブリンなどの諸地方を横領しマゾフシェにも食指を伸ばしている状況に対して敵対心を募らせていた。
折りしも1382年にハンガリー生まれのポーランド国王ルドヴィク1世が没し、9歳の娘ヤドヴィカが女王となると、ドイツ騎士団に対抗するために強力な指導者を望むポーランドの貴族たちはリトアニア大公ヤギェウォに白羽の矢を立てた。1385年、ヤギェヴォはキリスト教に改宗、ヤドヴィカと結婚し、ポーランド国王ヴワディスワフ2世として即位した。リトアニアの改宗によるバルト地域の異教徒のフロンティア喪失は、異教徒に対する征服をもって存在理念としてきた騎士団国家の存立の危機となった。1410年には、騎士団はヴワディスワフ2世率いるヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国とのタンネンベルクの戦いに大敗を喫し、西プロイセンを失った。
15世紀のドイツ騎士団国家は、強大なポーランド・リトアニア同君連合の脅威にさらされる側となった。騎士団は復興に向けて様々な努力を行うが、ポーランドによってただ圧倒されるばかりであった。1466年、騎士団は大都市ダンツィヒや首都マルボルクを含む東ポモージェをポーランドに割譲し、その残る領土はわずかにケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみとなった。しかも、東プロイセンについてもポーランド王権の及ぶ地域と定められ、騎士団の総長はポーランド国王と封建関係を結ぶ臣下となり、封土として認められた領土として扱われるようになった。
1510年に総長に就任したアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、1523年にマルティン・ルターと面会して感銘を受け、支配下の騎士とともにルター派に改宗した。こうしてカトリックの騎士修道会としてのドイツ騎士団は歴史的な役割を終え、ドイツ騎士団国家は1525年にブランデンブルク公家を世襲の公とし、ポーランド王国に帰属する世俗の領邦プロイセン公国に改められた。後日、アルブレヒトの血統が絶えると彼の親戚でブランデンブルクの選帝侯であるホーエンツォレルン家の飛び地領土となり、ここが後のプロイセン王国の名前の由来となる。
騎士団国家の消滅後も、騎士団自体は、南ドイツにもつ封土を中心にカトリック教徒のドイツ人によって保持され、ヴュルテンベルク地方で主にハプスブルク家の成員を総長として続いた。その後、騎士団は1809年に世俗的な領土を失い、第一次世界大戦でハプスブルク家の後援が断たれたが、騎士団は一種の慈善団体となり、現在も存続している。
出典:wikipediaより竹内信春改変。