波多野義常自刃す

1180年10月17日 丙申 波多野右馬允義常を誅せんが為、軍士を遣わさるの処、義常この事を聞き、彼の討手下河邊庄司行平等が未だ到らざる以前に、松田郷に於いて自殺す。子息の有常は、景義の許に在り。この殃(わざわい)いを遁(のが)る。義常の姨母は、中宮大夫進(ちゅうぐうだいぶのしん)朝長母儀(典膳大夫久経が子たり)。仍(よ)って父の義通の妹公(いもうとぎみ)の好(よしみ)に就いて、始めて左典(源 義朝)厩に候するの処、不和の儀が有りとて、去る保元三(1158)年春のころ、俄に洛陽を辞し、波多野郷に居住すと。

義常の姨母、つまり波多野義通の妹は源 義朝に愛され朝長を産んでいるとされている。朝長は平治の乱の際に深手を負い義朝の手によって命を儚くしている。義通の妹といっても、藤原典膳大夫久経の子とあることからすると、波多野義常の妹が朝長の乳母を勤めたか、あるいは「典膳大夫久経の子」が波多野義常の弟に再嫁したのだろうか。
なお、『尊卑分脈』では朝長の母親は藤原修理大夫範兼の娘あるいは藤原大膳大夫則兼の娘とされている。
いづれにせよ、波多野氏と源氏の関係は深いものがあったと考えて差し支えないだろう。それが、平治の乱における朝長の死によって断絶してしまった。この辺りの関係についても、『吾妻鏡』は「不和の儀が有りとて」離れて故郷に帰ったことになっているが、『平治物語』では合戦に参加している。

[参照]波多野義常、山内首藤経俊応ぜず


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