波多野義常、山内首藤経俊応ぜず

1180年7月10日 庚申 (安達)籐九郎盛長申して云く、厳命に趣きに従って、先ず相模の国内に奉(うけたまわり)を進(たてまつ)るの輩これ多し。而るに、波多野右馬允義常、山内首藤瀧口三郎経俊等は、曽(か)つて以(もつ)て恩喚に応ぜず。剰(あまつさ)え條々の過言を吐くと。

世の中は平家一色。その中で流人の源 頼朝に味方するようにと言うほうが難しいのかもしれない。但し、波多野氏は源氏譜代中の譜代の家臣。そうした間柄にも関わらず、招請に応じなかったのは「平治の乱」において受けた傷の深さが原因しているのだろうか。安達盛長に暴言を吐いた地は波多野城であったと考えられる。

[参照]波多野義常自刃す


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