頼朝、決心する
以仁王の令旨を受けた源 頼朝は藤原邦通の占いによって治承4年8月17日に挙兵することを決めた。そして、邦通、昌長に対してまずは因縁のある山木判官をターゲットにすることを表明した。山木判官は平家一門であるが身内の争いから伊豆に流されていた人物。しかし、全盛を誇る平家の一門ということで力を付けていた。また、源 頼朝の妻となる北条政子との間に結婚の約束があったことから、頼朝は心憎く思っていた人物でもある。
伊豆の地は狭いこともあって数多くの小豪族がひしめき合っている。事を大きくすれば達成する前に計画が漏れてしまう可能性が非常に高い。そこで、頼朝は特に信頼の置ける源氏譜代の御家人のみに計画を伝えた。計画を伝えられたのは、工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、加藤次郎景廉、佐々木三郎盛綱ら。こういった信頼のおける人々を一人一人呼んでは、
「あなただけが頼りです」
と言葉をかけた。主君と仰ぐ人から、こういった言葉をかけられて奮い立たないものがいるだろうか。後に頼朝は関東の武士達を御家人として組織していくことになるが、そうした御家人との間にも、同じような信頼関係を持つことを心がけた。決して一方的、高圧的な意味での主従関係ではなかったことが鎌倉幕府という組織を誕生させたのだろう。
しかし、この動きは、平家方にも漏れてしまっていた。関東における平家方の中心人物は大庭景親。大庭景親は「保元の乱」に際しては源 頼朝の父親の義朝に従って奮戦し、敵方の源鎮西八郎為朝の矢を受けて負傷した兄の懐島権守景義を救い出したことで勇名を馳せていた。本来は義朝の家人として六条河原の露と消える運命であったところを武勇を惜しんだ平 清盛が助命したことで平家方に転じていた。大庭景親は京における以仁王討伐の軍勢に加わっていたが、その折に、上総介忠清から北条四郎時政と比企掃部允が源 頼朝を担いで謀反を計画しているとの情報を得ていた。そこで、相模に戻ると、渋谷重国のもとに客分として滞在していた佐々木源三秀義を呼んだ。