新田氏
清和源氏の義家流。八幡太郎義家の三男の義国は現在の栃木県に当たる下野国に土着。その子の義重が隣の現在は群馬県に当たる上野国に移住し新田氏を称したのが始まり。義重は藤原摂関家に開発した所領を寄進し新田荘下司として地位を確立した。
義重の娘は鎌倉悪源太義平の妻となっている。また、足利氏とともに長井の渡しに秩父荘司重能を破り東国での名声を得る。清和源氏嫡流の源 頼朝が伊豆で挙兵に及んだ際は、自らは八幡太郎義家の嫡孫であるとの自覚から招請に応じず上野国寺尾城で独自の動きをとる。その後、鎌倉入りした頼朝が派遣した安達九郎盛長に応じたが、この独自の誇り高い動きが後々の新田氏の鎌倉幕府内での地位を決してしまう。
義重の正嫡は熱田大宮司範季を母に持つ四男の義兼(義廉)。この義兼は、実は鎮西八郎為朝の子であるという伝承がある。文治元(1185)年の勝長寿院落慶供養の際には頼朝の随兵として参加。
新田義貞(1301-1338)は元弘3(1333)年に鎌倉幕府を滅ぼしたことで一躍脚光を浴びる。但し、鎌倉攻めは計画的なことではなく、新田荘での小競り合いが図らずも大規模な戦いに発展してしまったこと、親戚筋に当たる足利氏が実質的に関東武士団を束ねる旗頭となっていたことが指摘されている。鎌倉入り直後から足利陣営と不和を生じ、かつ、鎌倉幕府内で北条氏と密なる関係にあって名声を得ていた足利氏とは最初から対抗出来る程の力もなかったことから、後醍醐天皇方としての旗色を明確に打ち出していく。摂津湊川の戦いで楠木正成とともに足利高氏を討とうとするが敗れ、恒良親王、尊良親王を奉じて北陸の金ヶ崎城を本拠地とする。しかし、足利軍の斯波高経による猛攻を受け城を脱出。この義貞の脱出によって尊良親王と義貞の子の義顕は自害に追い込まれ、恒良親王は足利軍の捕虜となる。義貞は諦めず、高経との戦いを継続するが、越前足羽郡藤島であっけない最期を遂げた。
義貞の次男、義興(1331-1358)は北畠顕家、顕信とともに南朝方として足利軍と戦うも、正平13年に足利基氏の策略によって越後から武蔵へと進出し矢口の渡しで取り囲まれ自刃に追い込まれた。義貞の三男、義宗は各地を転戦。脇屋義治とともに上杉能憲、憲春を沼田に攻めるも敗れる。後に、伊予の得能、河野氏を頼って落ち延び、応永6(1399)年7月14日に道後で卒したという。