公家将軍鎌倉入り
1219(建保7)年閏3月15日に二位禅尼こと北条政子の使者として弟の北条相模守時房が上洛した。先年、鎌倉幕府第3代将軍源 実朝が甥の公暁によって暗殺され、鎌倉殿の嫡流が途絶えていた。この非常事態に際して、鎌倉御家人一同が初代源 頼朝の姉の血を引く九条家の頼経(三寅)を将来の第4代将軍として招くことを決していた。今回の使者は、その頼経(三寅)を迎えるためのもの。
この年、京にも鎌倉にも様々な天変地異が相次いだために年号が承久に改元された。そして、同年6月3日に、
「三寅を鎌倉殿として鎌倉へ下向させる」
との宣旨が下された。時房は三寅を九条道家邸から鎌倉幕府の京における拠点である六波羅へと移した上で鎌倉に出発。19日には鎌倉に入り、第2代執権右京権大夫義時の大倉邸へと三寅を迎えた。鎌倉入りの荘厳な行列に付き従ったのは、先陣が三浦太郎兵衛尉、同次郎兵衛尉、天野兵衛尉、宇都宮六郎、武田小五郎など10名、続いて、三浦左衛門尉、後藤左衛門尉、葛西兵衛尉、土屋左衛門尉ら10名が狩装束で従った。京からも藤原伊予少将実雅、甲斐右馬助宗保などが従った。