鎌倉騒動

鎌倉にとって将軍は象徴であった。しかし、当の象徴である将軍はしばしば実権であろうとして混乱を作り出してきた。第六代将軍宗尊親王も例外ではない。宗尊親王は執権北条時宗を疎ましく思い、自分の周囲にシンパを形成することで執権の排除を狙おうとしていた。これに応じたのが北条教時である。北条中務大輔教時は遠江守名越朝時の六男でれっきとした北条一門。北条一門とは言っても得宗家に近い流れではないので北条一門の中では軽い扱われ方をしていた。鎌倉の中で一見すると権力の中心にあるようでいて、実は権力から疎外されている二人が惹かれあったとしても不思議ではない。宗尊親王の動きが露骨になってくると、それに触発された御家人衆が戦の準備を整えて鎌倉街道を続々と鎌倉目指して駆け下ってきた。どのように事が進もうとも草深い本国にあっては武功を立てることは叶わない。武功を立てなければ新しい所領を得ることは出来ない。そのために、関東の御家人衆は鎌倉に不穏な空気ありという噂を聞きつけると、どちらに味方するということも聞かずに、ただただ所領安堵のご奉公を果たすためということで完全武装で鎌倉入りした。今回、この騒ぎで鎌倉中は武士達で満ち溢れた。

騒ぎを収めるのが執権の役目と北条時宗は武藤景頼と二階堂行忠を宗尊親王の御所へと派遣し、親王の身辺の安全を確保するためにも執権邸に移ることを提案した。時宗のあまりにも素早い動きに、宗尊親王の側近を自認する人々は御所から立ち去って北条得宗家に反逆する意図のないことを身をもって示した。残った気骨のある御家人は、諏訪判官忠景、信濃三郎左衛門尉行章、伊東刑部左衛門尉祐頼、鎌田次郎左衛門尉行俊、渋谷左衛門次郎清重だけという有様。

気骨のあるものと言えば、北条教時は部下を率いて薬師堂ヶ谷邸から塔の辻へと出陣していた。仲間を十分に募っていないにも関わらず、僅かな手勢で出兵するというのは勇み足にも程が有る。北条教時の手勢を目にした諸国の御家人衆は右往左往し、有りもしない本陣を目指して鎌倉中を駆け巡った。誰も大軍をもって本陣など構えていないのだから余計に始末が悪い。ただただ混乱するだけである。

こうした事態に直面して時宗は慌てることなく、東郷八郎入道を北条教時のもとへ派遣して宥め聞かせた。教時は同じ北条一門である。それに、率いている手勢は僅かであり、下知を出せば一ひねりで潰せる。しかし、それをしては一族の結束が保てないばかりか無用の混乱を鎌倉にもたらすことになる。

「貴殿をどうこうするつもりは全くない。だから、早くこちらに来てともに鎌倉を盛り立てようではないか。将軍家も同意されている」

時宗が強硬な姿勢で臨むと考えていた教時は一気に安堵し何事も無かったかのように得宗家の恭順を誓った。

このようなことがあったので、宗尊親王は御所から北条越後入道勝円の佐介邸に移され、武蔵大路を経て京へと送り返された。付き従った御家人は相模七郎宗頼、六郎政頼、遠江前司時直、越前前司時広、弾正少弼業時、駿河式部大夫通時らであった。


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