伊賀氏の乱

第2代執権北条義時死去の報せに接して京にいた相模守時房と武蔵守泰時は急遽、六波羅を発って鎌倉を目指した。しかし、鎌倉に不穏の動きがあるという情報を得ていたので直ぐには鎌倉に入ることなく、しばらく時間を稼いだ。鎌倉の状況を十分に把握すると鎌倉に入り、早速、尼将軍こと北条政子に会った。政子は、

「政治の空白は許されません。一刻も早く父義時と同じく執権の地位に就いてください」

と語り、大江広元も、

「鎌倉中に様々な噂が飛び交っています。もちろん、執権に関するものです。泰時殿には早く執権の地位に就任していただくことが何よりも大事というものです」

と諭した。

大江広元が語った噂というのは、義時亡き後、泰時は弟に討たれ執権に就任することは出来ないというもの。第2代執権北条義時の後妻は伊賀守藤原朝光の娘。泰時の母とは違っていたというのが噂の根底にあった。朝光の娘は義時との間に政村を産んでいた。義時が亡くなるに当たってしっかりと遺言し、政村の将来について何がしかの保障をしていれば問題は無かったかもしれない。遺言がないということは政村母子を酷く不安に陥れた。義時邸は嫡男の泰時に相続されるのが筋というもの。そうなると、政村母子は義時邸を出て行かなければならない。出て行ったとしても何らの経済的基盤を持っていない政村母子は路頭に迷ってしまう。焦った政村の母は我が子可愛いさに、弟の伊賀式部丞宗光と示し合わせて、三浦駿河守前司義村を巻き込んで、鎌倉将軍藤原頼経を廃し泰時を討ち取り、義村の婿の宰相中将一条実雅(一条能保の子で源 頼朝の縁者)を鎌倉将軍として擁立し、政村を執権にしようという計画を練った。

北条政子は計画を聞きつけて、政村を宥めて安心させるとともに、京の動きを事前に封じるために、時房の子の時盛と泰時の子の時氏を京へ派遣して治安維持の任に当たらせた。さて、問題は三浦義村である。三浦氏は鎌倉のすぐそばの三浦半島を本拠地とする大豪族。大きな軍事力を有し、しかも、いつでも鎌倉になだれ込むことが出来る。事は慎重を要する。政子は駿河局だけを連れて三浦義村邸へと向かった。そして、

「外の騒ぎは一体何事でしょうか。世間では陸奥四郎政村と伊賀式部丞光宗が何か良からぬ企みを巡らせていると専らの噂ですよ。何か、泰時に恨みでもあるというのでしょうか。泰時は父親の義時の時代から父親を良く支えてきました。鎌倉幕府存亡の危機であった承久の乱の時も実際に活躍したのは泰時だったことはあなたも十分ご承知のはずです。いわば、義時の治政は子の泰時との合作と言っても言いすぎではありません。それも、義村殿は良くご承知のはずではありませんか。もし、義村殿までもが世間で言われている企てに加わっているとするならば何としたことなのでしょう。それでも、企てに加わりますか、加わりませんか。この場ではっきりさせて下さい」

武力で押し寄せてきたならば義村もやり返しただろう。ところが相手は女性、しかも老女である。確かに並みの老女ではない。並みの老女ではないだけに義村も詰め寄られてはたと困ってしまった。遂に決心して、

「政村殿は何も知りません。ただ担がれているだけだと重います。しかし、伊賀光宗については少し思い当たる節がありますので、私からじかに問いただし、もし世間で噂されているような企てを企んでいるとすれば、私が身をもって制しましょう」

と答えた。光宗の命を犠牲にして政村の命を救おうとしたのだ。北条政子が去った後、義村は泰時邸に赴き伊賀宗光の動きを封じた旨を伝えた。泰時のほうも仔細を承知していたので、義村を咎めることなく弟の政村に敵意など少しもないということを伝えた。

事件が未然に防がれた後の閏7月8日、北条政子、時房、大江広元、関左近将監実忠が集まって善後策を練った。義時の妻と弟の伊賀光宗は配流処分。将軍に担がれた宰相中将一条実雅は公卿であるために鎌倉では処分出来ないということで朝廷に伺いを立てることに決した。早速、伊賀光宗は政所執事を解職され、甲斐国岩間牧・常陸国塩籠荘・大窪荘・陸奥好島荘・若狭国日向浦・谷田寺・但馬国広谷荘・備前国則安名・長田保・紙工保といった所領を没収の上、叔父の隠岐入道行西こと二階堂行村に預けられ信濃へと配流になった。政所執事には藤民部大夫行盛が任命され、尾藤左近将監景綱が泰時の輔佐として特別に任命された。続いて、義時の妻は伊豆へと配流に処された。光宗の弟の四郎左衛門尉朝行と同じく右衛門尉光重は京から九州へと配流された。処分が保留されていた宰相中将一条実雅も最終的に越前へと配流され陰謀の処分は終わった。

伊賀光宗は後に赦免されて評定衆にまで返り咲き、岩城国好島荘西方預所職を得ている。


This page is powered by Blogger. Isn't yours?

京と鎌倉の宇佐小路のショッピング おこしやす楽天