実朝暗殺
1218(建保6)年12月2日、鎌倉幕府第3代将軍源 実朝は正二位右大臣に任命された。任命の御礼式典は翌年の正月と決まり、山城判官行村が準備を命じられた。御車などは後鳥羽院からわざわざ下賜された。1219(建保7)年1月27日、いよいよ実朝の大臣就任式典が鶴岡八幡宮で執り行われることとなった。行列は荘厳なもので、牛馬を預かる居飼が4人、舎人が同じく4人、衛府役人である一員が3人で2列を作り、将曹菅野景盛、府生狛盛光、中原成盛が正装の束帯姿で続いた。その後ろには、京からの殿上人として一条侍従能氏、伊予少将実雅、中宮権祐亮信義ら5人が随身4人を伴って連なった。さらに、前駆として藤勾当頼隆ら18人が馬に乗って従った。その後ろに、三等官の秦兼峰、下毛野敦秀。その後ろに主人公である実朝が檳郎毛の車に乗って登場。横には坊門大納言が付き添う。その後ろに随兵10人、雑色20人、検非違使1人、更に更に様々な人々が連なり、調度掛の佐々木五郎左衛門尉義清が、大納言忠清、宰相中将国道が続いた。これで終わりではなく、その後ろに国守大名30人が、その後ろには1000騎の武者が続いた。まさに、今まで見たこともないような絵巻物が鎌倉の地に出現した。行列を一目見ようという人々も関東中から鎌倉に貴賎の別なく押し寄せ、鎌倉の路地という路地、谷という谷は人々で満ち溢れた。
行列が鶴岡八幡宮の楼門に入るか入らないかという時に、執権北条右京大夫義時は急に気分が優れないといって、御剣の役を文章博士源仲章(中原仲章)に譲った。この義時の行動を後の人々は事件を事前に知っていたのではないかとか、義時が事件の黒幕ではないかと結論付けている。一方で違った考え方もある。ともあれ、実朝は小野御亭から本殿へと向かい儀式を無事に終えた。
儀式が無事に終えたものの、別のものが密かに幕を開けていた。そちらのほうは、これからクライマックスを迎える。舞台の幕を開けさせた公暁、第2代将軍頼家の遺児であり、現将軍実朝の甥であり、鶴岡八幡宮の別当でもある公暁は石橋の蔭で実朝の帰りを待っていた。そこに、儀式を終えた実朝が通りかかった。事は一瞬であった。石橋の蔭から何者かが飛び出てきたと思いきや、実朝に向かって何事かを叫び首をスッと鮮やかに刎ねてしまった。そして、
「これは執権殿とお見受けいたす。覚悟召されよ」
と仲章の首をも刎ねてしまった。夜なので暗かったということと、公暁はじっと石橋の蔭に潜んでいたので、執権義時が仲章と代わったということを知らなかったのである。公暁は実朝の首を離さずに別当坊の方角へ向けて走り去った。付き従っていた殿上人らは狼狽し逃げ惑い、御家人衆は何が起こったのか暗闇で分からず同士討ちし兼ねない混乱振りとなった。その中、いち早く、武田五郎信光が公暁を追ったが見失ってしまった。
公暁は混乱の隙を突いて、備中阿闇梨の雪ノ下坊に逃げ込み、弥源太兵衛尉を三浦義村のもとへと走らせた。助勢を乞うためである。その間に食事をしたが、片時も実朝の首を離さなかったという。恐るべき執念である。公暁は頼朝の血を引くので、ここは三浦一族を後見に立てて自分は将軍になろうと企んだ。三浦義村へは義村の子で門弟の駒若丸を介して誼(よしみ)を通じていた。というより、そういう気になっていた。この経緯から実朝の暗殺の黒幕を三浦義村とする考え方もある。
しかし、公暁の誘いに義村は乗らなかった。執権北条右京大夫義時に使いを出し、公卿の居場所を知らせるとともに、郎党の長尾新六定景を討手として差し向けた。定景は雑賀次郎らを引き連れて備中阿闇梨坊へと向かった。既に、公暁は鶴岡八幡宮の裏から義村邸をめざしていた。公暁は山中で定景に討ち取られたとも、山中で行方知れずとなり餓死したともされる。