牧氏の乱

鎌倉幕府初代執権北条時政の後妻の牧ノ方は娘婿で源氏一門の武蔵守平賀朝雅と畠山重保との口論を根に持ち、朝雅に肩入れして鎌倉幕府創建以来の功労者で坂東平氏の名門である畠山父子を強引に討伐させた。継母のあまりの強引さに北条政子、義時の姉弟も辟易し、北条家の中に亀裂が確実に広まっていた。

そんなことも気にせずに、牧ノ方は義時、時房、泰時らを政務から遠ざけ、源氏一門で娘婿でもある平賀朝雅を将軍に擁立したいと真剣に考えるまでになった。牧ノ方にとっては尼将軍政子も気に入らないのである。朝雅を将軍職に就けるということは、現在の第3代将軍実朝をどうにかするということを意味する。悪いことに、実朝は幼少だったこともあって、時政に後見されるという形で名越の時政邸に牧ノ方とともに暮らしていた。

噂を知った政子は、長沼五郎宗政、結城七郎朝光、三浦兵衛尉義村、同九郎胤義、天野六郎政景を名越邸に派遣。長沼宗政らは執権北条時政に事の真意を糾し、兵で名越邸を取り囲んで実朝を名越邸から相模守義時邸へと移すことを迫った。牧ノ方の陰謀に執権時政も加担していたのであるが、陰謀の成就には取り合えずは実朝という旗印、大義名分が必要であった。それが、このように邸を兵に取り囲まれた上に御家人衆が自分から離反して娘の政子、息子の義時のほうへと付いているというのであっては成功は覚束ない。

時政は観念して出家して伊豆の北条の地へと隠居してしまった。後に執権というと非常に強力な権限を持っているようなイメージが定着するが、この事件が示しているように、当初は御家人の同意のもとに御家人を代表して行動するという存在だった。御家人の意向を無視した行動に出るならば失脚という道しかなかったわけである。この点は将軍であっても同じだったわけで、そこを履き違えたのが第2代将軍頼家であり執権の妻としての牧ノ方だったと言えるだろう。その牧ノ方も時政とともに北条の地へと鎌倉を後にした。平賀朝雅は陰謀の中心にいたわけではなかったが、陰謀の中に一人取り残される形となった。

大江広元と安達藤九郎盛長は北条相模守義時と善後策を練った。問題は平賀朝雅をどうするかの一点。朝雅は頼朝の縁戚に当たる清和源氏義光流である他、父の義信は特別に武蔵守に任じられ治政を頼朝から模範的と称された人物であり、自身は頼朝の猶子でもあった。それだけに、そのままにしておいては再び担がれる可能性がある。それに、畠山父子討伐の引き金を引いた人物でもある。義時らは禍根を絶つために朝雅の討伐を決定した。

朝雅は当時は京都守護として京都にあった。居宅である六角東洞院に、五条判官有範、後藤左衛門尉基清、源三左衛門尉親長、佐々木左衛門尉広綱、同弥太郎高重ら700騎あまりが押し寄せた。朝雅は後鳥羽上皇の御所で囲碁を楽しんでいた。使いの者から異変を知らされた朝雅は顔色一つ変えずに囲碁を続け、終わった後に上皇に趣旨を伝えて御所を退出した。周囲の者の中には朝雅が鎌倉から討伐されているということに気がつかなかった者さえいたという。

六角東洞院の自邸に戻った朝雅は郎党とともに700騎を迎え撃ったが郎党が全て討ち果たされるに至って、自邸を脱出し松阪まで駆け抜けた。鎌倉方では金持六郎広親と佐々木盛綱が追った。ところが中々追いつけない。続いて山内首藤経俊の子の持寿丸こと通基が追いついて矢を放ち朝雅の首を討ち取った。ちなみに、この持寿丸こと通基の父の山内首藤経俊は1204(元久元)年に平家残党の平 盛時、基時が伊賀・伊勢で挙兵した際の両国守護。守護所から逃げ、代わりに朝雅が京都から討伐軍を率いて乱を鎮圧した。逃げた山内首藤経俊は第3代将軍実朝から譴責され守護職を没収されている。

因果応報、盛者必衰の理(ことわり)の絡み合いというべきだろうか。


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