頼朝、薨去す
稲毛三郎重成の妻は北条政子の妹だったが、長い間、病を患って、遂に1195(建久6)年に看病の甲斐もなく亡くなった。重成は、この妻を大層愛していたために、妻を亡くした嘆き悲しみは周囲の者も辛くなるほどであった。重成は妻の菩提を弔うために頼朝の許可を得て出家し、自分の所領に引きこもった。
年を経て、1198(建久9)年、重成は亡き最愛の妻の供養のために相模川に橋を架けた。そして、その橋の渡り初めに主君である頼朝を鎌倉から招いた。その帰りのこと。八的原に差し掛かろうとした時、馬に乗る頼朝の前に、今は亡き弟の義経と叔父の行家の亡霊が俄かに現れ恨み言を繰った。頼朝も武門の棟梁であり、怨霊の一つや二つで取り乱すということはない。しかし、鎌倉はもうすぐという稲村ガ崎で平家とともに壇ノ浦の海の藻屑と化した安徳天皇の亡霊が頼朝に纏わりついた。払っても払っても追いすがってくる亡霊に、遂には落馬してしまう。北条政子の弟の義時は慌てて頼朝を抱えて大倉の御所へと担いで駆け込んだ。
御所では様々な治療の他に祈祷も執り行われたがさっぱり効き目がない。年も変わって、1199(正治元)年1月11日に征夷大将軍正二位前大納言右大将源 頼朝は出家。13日には薨去。享年53年。まだまだ、これからという年齢である。鎌倉中は悲しみに沈んだ。
ただ、頼朝が晩年に天皇家の外戚になろうと様々な画策をしていたこと。そうした動きに関東の御家人衆は必ずしも快くは思っていなかったこと。直前に、鎌倉の鎮守社であり、鎌倉党の祖霊を祀る御霊神社の鳴動があり、鎌倉の人々が不吉な予感を抱いていたことは知っておかねばならないだろう。