1199(正治元)年

1月


13日 鎌倉殿(源 頼朝)が薨去する。鎌倉殿は臨終の際に畠山重忠を呼んで幼かった次男(実朝)の将来を託した | 20日 源 頼家が左近衛中将に任じられる | 26日 頼家が諸国守護惣奉行に任ぜられる

2月


『三左衛門の変』勃発する。京都で故一条高能の家人であった後藤基清、中原政経、小野義成の3人の左衛門尉が右大将通親を襲撃。通親は院に立て篭もった。この事態に対して源 頼家(羽林殿,鎌倉殿)は捨て置けと言い放ったとされる。大江広元と北条義時は中原広季の子で大江広元の弟の中原親能を京都に派遣して事態を収拾した

3月


足利義兼が逝去する | 文覚上人が佐渡に配流される

4月


12日 北条政子らが頼家の相論直裁を停止。問注所を三善康信邸に移す | 20日 源 頼家が小笠原長経、比企三郎、細野四郎、中野能成、和田朝盛の鎌倉中での狼藉をも許すという特例を梶原景時と中原仲業に伝えさせる

5月


源 頼家の妹の三幡の病気の治療のために丹波時長が鎌倉入り

6月


22日 土御門通親が内大臣となる | 30日 治療の甲斐なく三幡が逝去する

7月


12日 親鎌倉派の院厩別当西園寺公経と関東伝奏吉田経房が土御門通親によって解任される。新たに関東申次として坊門信清を任命する

8月


12日 安達景盛を討伐しようとする頼家を北条政子が譴責。頼家は安達景盛の妾に横恋慕し、景盛に三河国の治安平定を命じる。頼家は景盛が鎌倉を出発した隙に景盛の妾を拉致した。これに怒った景盛に対して頼家は謀反であるとして討伐しようとしていた。

10月


28日 結城朝光が讒訴された件に付いて和田義盛ら御家人66人が梶原景時を弾劾することを決議する

11月


13日 梶原景時一族が鎌倉を出て相模一ノ宮に篭る

12月


29日 梶原景時が播磨国守護を解任され、新たに小山朝政が守護に任じられる

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