安達景盛(-1248)

-宝治2年。源 頼朝の側近である安達藤九郎盛長の子。父、盛長とともに鎌倉幕府の樹立に奔走。景盛を有名にした事件は2つある。1つめは、源 頼朝が亡くなった2代将軍頼家の治世の1199(正治元)年に起きたもの。何と、景盛の愛人が物凄い美人であるということを聞きつけた頼家が、景盛に三河が物騒な状況になっているからじかに行って何とかしてくるようにと言いつけた。もちろん、景盛が居なくなった隙に美人の愛人を口説こうという企み。ただ、口説くだけならご愛嬌。頼家は将軍という地位にものを言わせて奪い取った。

驚いたのは鎌倉に戻ってきた景盛。当然、返せということに。しかし、大江広元は主従の間柄では昔から例があることとして頼家を擁護。頼家の後見役の梶原景時は愛人を奪われたくらいでガタガタいうとは以ての外。心の中で謀反を考えているに違いないから、この際、討ち取ってしまいましょうと言う始末。景盛のほうでも、もはや致し方なしとして武装し一触即発となる。そこに、北条政子が割って入り、頼家を諫止。景盛討伐は無くなった。このことが遠因となって頼家は母親の北条家と疎遠になり、安達氏は梶原氏を恨むようになった。それぞれ、比企一族の乱と梶原景時の追放に結びついていく。

さて、もう一つの事件というのは、1247(宝治元)年の宝治合戦。1219(承久元)年に3代将軍実朝が暗殺された後、高野山に上って大蓮坊覚智と名乗って出家していた景盛が1247(宝治元)年に急遽鎌倉に舞い戻り、執権北条時頼と三浦一族の討伐を密議し挑発。遂には三浦一族を滅ぼしている。


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