比企氏の乱

第2代将軍頼家が病床に臥せっている間に北条一門は御家人衆を糾合して、頼家の権力を弟の千幡と子の一幡に分割して相続させるということを決めてしまった。千幡は北条遠江守時政の孫、尼将軍北条政子の子。このままでは外戚としての比企家の安泰はないと頼家の内縁の妻である若狭局は焦った。そして、病床の頼家の枕元で北条一門打倒の計画を巡らした。

密談の内容を襖に耳を当てて聞いていたのが北条政子だったと言われている。ただ、頼家が臥せっていたのは御所ではなく、大江広元邸だったとも言われ、そうすると、若狭局と頼家の密談というものもあったのかどうなのか疑わしいという。

ともあれ、政子は驚いて名越邸にいた父の時政に書状を認(したた)める。更に驚いたのが時政。すぐに、大膳大夫大江広元のもとへと駆けつけ対処を相談する。いつもの如く、広元は、

「何事も慎重に。しかし、時政殿の後悔のないように」

とどちらとも取れる言い方をして答えた。言質(げんち)を取られて後々面倒に巻き込まれないように、北条氏、比企氏のどちらがどうなっても自分の身に火の粉が降りかからぬようにという処世術である。一方の時政は、この時代の関東武士らしく愚直。敵は倒す。それだけである。敵は倒す。それも計画を知った上には先手を打つ必要がある。時政は天野民部入道蓮景と仁田四郎忠常を呼んで下知した。

「比企能員に謀反の計画があるという。よって、両人を大将に任じるので軍兵を率いて比企ヶ谷に押し寄せ討ち取れ」

これを聞いた天野蓮景は、

「たかが比企能員一人を討ち取るだけのために大軍を組織して比企ヶ谷まで押し寄せる必要もないのでは御座るまいか。比企の老人一人、時政殿の名越邸に招いて成敗すれば足りるというもの。そのほうが、事を大きくせずに、かつ、簡単に納めることが出来るというもの」

「なるほど、天野殿の言うとおり」

時政は納得し、

「本日、名越邸にて薬師如来像の開眼式を葉上房律師栄西を導師として執り行うので、是非とも比企殿にもお越し願いたい。また、その際に今後のことなども二人でゆるりと忌憚無く話し合いたい」

というもっともらしい書状を工藤五郎に持たせて比企ヶ谷に派遣した。書状を受け取った比企能員は文字通りに考え僅かな供を連れて名越へ向かおうとした。狭い鎌倉では比企ヶ谷から名越まではさほどの距離ではない。しかし、時期が時期。比企の一門は能員を止め、それでも行くというならばせめて武装した郎党を連れて行くべきだと進言した。ところが、能員は、

「自分が甲冑を身に付け、しかも、完全に武装した郎党を引き連れていくということになれば、それこそ、時政に戦いを挑みに行くようなもの。こちらに、その気が無くとも、こちらの姿かたちを誤解されて不意に戦端が開かれてしまうかもしれない。今のところ鎌倉には何も不穏な動きがない。兵が集まっているということも耳にしていないのだから全く問題はない」

と気にも留めずに、白い水干と葛袴という武家の正装で郎党2名、召使5人を引き連れて名越邸へと向かった。

さて、向かった先の名越邸では、甲冑を身に纏った中野五郎と市河別当五郎が門の両脇で弓に矢を番(つが)え、天野入道蓮景と仁田忠常が脇戸に身を隠して刀を握り締めて、比企能員の到着を待っていた。

能員は名越邸に着くと馬を降り、中までお供すると言った郎党を宥めて、ただ一人で妻戸を開けて建物の中に入った。比企の郎党が立って歩く主を見たのはこれが最後となった。能員が建物の中に入るや否や蓮景と忠常の二人がいきなり飛び出て能員の口を塞ぎ両手を押さえつけて、あっと言う間に能員の首を刎ねてしまった。能員も一角(ひとかど)の武士ではあったが、あまりにも突然の出来事に死んでもなお、死んだことに気付かなかった。首の刎ねられた胴体が何事も無かったかのように、如何にも単に何かに躓いて転んでしまっただけのように立ち上がろうとしていたほど。

さて、外で待っている比企の家人は屋敷の中での惨劇を知らない。物事を聞いたような気もしたが、聞かなかった気もする。その程度である。武装した北条の郎党が辺りをうろついているということもない。ところが、もう用事が済んでも良さそうな時分なのに主が中々出てこない。気を揉んで北条の家人に聞いてみたが全く要領を得ない。もう帰ったのではないかとか、屋敷の中にはいないとか。そういうばかりである。しかし、兎に角も待った。待ちに待ったが主は出てこない。どう考えてもおかしい。そう思った家人達は慌てて比企ヶ谷へと取って返した。

話を聞いた比企一門は、既に能員が北条時政によって討ち取られたということを知った。事がここに至っては正義はこちらにある。一族は鎌倉の内外に使者を放ち兵を募る一方で門を閉ざし甲冑に身を包んで、やがて押し寄せてくるであろう北条の軍勢に備えた。もし、北条の軍勢が押し寄せて来るのに時間が掛かるならば、そのうちに比企方に味方する軍勢が集まるだろう。そうすれば、こちらから名越に押し寄せるまで。こちらには、2代将軍頼家の嫡男一幡君がいるのだ。比企一門は意気盛んであった。

北条方の動きも素早かった。北条政子は比企一族討伐の命令を出した。弟の北条江馬四郎義時と泰時を大将として、武蔵守朝房、小山左衛門尉朝政、同五郎宗政、同七郎朝光、畠山次郎重忠、榛谷四郎重朝、三浦平六兵衛義村、和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛、同小四郎景長、土肥先二郎惟光、後藤左衛門信康、尾藤次知景、工藤小次郎行光、金窪太郎行親、加藤次郎景廉、同太郎景朝らがそれぞれに軍勢を率いて、午後2時に比企ヶ谷の小御所に押し寄せた。

対する比企方も、比企三郎、四郎、五郎を筆頭に、能員の養子の河原田次郎、婿の笠原十郎左衛門尉親景、中山五郎為重、糟谷藤太兵衛尉有景が向かい討つ。しかし、次第に圧され、畠山重忠の奮戦もあって、笠原親景は討死し糟谷有景も深手を負った。他に負傷者が続出。比企五郎と河原田次郎は遂に小御所に火をかけ一幡君を道連れに一族郎党自害する覚悟を決めた。

その中で、ただ一人、能員の長男の余一兵衛尉は女装して比企ヶ谷を逃れた。しかし、途中で味方の加藤景廉に見つかり首を刎ねられた。また、比企ヶ谷の小御所が灰燼に帰した夜に比企能員の舅の渋河刑部丞が処刑された。午後の4時まで続いた戦いで約800人もの人々が命を落としたという。


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