頼家、将軍となる
1202(建仁2)年8月2日、京から鎌倉へ勅使が到着する。源 頼朝の跡を継いでいた頼家の征夷大将軍就任を伝える勅使である。
「7月22日、左近衛中将源 頼家卿は従二位に叙せられ、征夷大将軍に任命された」
勅使が伝えると、鎌倉では早速、鶴岡八幡宮でのお礼参りの拝賀の式典が催された。これで、頼家は晴れて鎌倉殿の2代目としての地位を固めたことになる。これで、少しでも亡き父頼朝の御家人に対する心遣いを見習えば前途は洋々だったろう。
しかし、そこは2代目、始めからさしたる苦労もなく御家人衆に傅(かしず)かれていたためだろうか、それとも粗野で教養がない関東武士を嫌ったのだろうか、頼家は以前にも増して蹴鞠に没頭していく。もっとも、頼家だけを責めるというのも公平ではないだろう。子は親を見て育つというもの。父親の頼朝にもそうした貴族趣味はあったのだ。ただ、頼朝の場合はそれ以外のものも十分に持ち合わせていた。だからこそ、粗野と言われた御家人衆にも親近感をもたれたわけである。息子の頼家は単に、父親の一面しか受け継がなかったということに過ぎない。
頼家が蹴鞠に没頭して政治を顧みないという状況は次第に御家人衆との溝となっていく。それはともあれ、11月21日には3歳の息子の善哉(後の公暁)が鶴岡八幡宮に初めて参拝し、神馬2頭を献上している。続いて、頼家は12月19日には鷹狩の見物のために山内荘へと出かけている。その時の供として、鼓判官平 知康が同行している。後白河法皇に仕えていたあの鼓判官である。頼朝が日和見主義的なところや蔭で権力を操る態度を非常に嫌悪して止まなかった人物だ。これは父親へのささやかなる反発とでも言うのだろうか。その頼朝が草葉の陰から憎憎しく思ったとでもいうのか、山内から御所のある大倉へと帰る途中、亀ヶ谷で知康の馬が突如として暴れ出し、知康は馬から降り落とされて井戸に落ちてしまった。
「あな恐ろしや、恐ろしや」
知康は井戸の中に落ちたものの額をしたたかに打っただけの軽症で済んだ。大倉に帰ると知康は将軍から、服が汚れただろうということで小袖12領を拝領している。この出来事はたちまちのうちに鎌倉中の噂となった。鎌倉の人々は皆、口を揃えて、
「きっと頼朝様の仕打ちに違いない。あの鼓判官といういけ好かない男は後白河法皇に取り入って、平家を誑(たぶら)かし、義仲様を愚弄し、義経様を弄(もてあそ)んだ。頼朝様は同じ手には乗らなかったが、頼家様には上手いこと取り入っている。また、何か良からぬことが起きなければ良いが」
1203(建仁3)年1月2日には頼家の嫡男一幡が鶴岡八幡宮に初詣に出かけ、4日には将軍の弟の千幡(後の実朝)が初詣をしている。この頃は頼家の一家と千幡も後に鶴岡八幡宮で決着がなされる源家の悲劇について知る由もない。
11日には、1192(建久2)年に炎上して以来、そのままとなっていた鶴岡八幡宮の卒塔婆の再興の地曳祭が、頼家に命ぜられた三善大夫入道善信の差配のもと執り行われた。