歴代鎌倉公方
初代:足利基氏:在位1349 - 1367
足利高氏の次男。母は鎌倉幕府最期の執権北条赤橋守時の妹の赤橋登子。父の高氏と叔父の直義が対立した「観応の擾乱」が勃発すると、鎌倉にいた兄の義詮に代わって鎌倉に下向。在任期間中に、新田義興を滅ぼし、執事の畠山国清を御家人衆の要請によって討伐。直義方であった上杉憲顕を関東管領に復帰させた。
2代:足利氏満:在位1367 - 1398
基氏の子。関東管領上杉憲春とともに関東における鎌倉公方の権力を確固たるものにする。京の幕府で細川頼之と斯波義将が内部闘争を始めると、第3代将軍義満に叛旗を翻そうとする。しかし、関東管領上杉憲春が諫死したことで謀反には及ばなかった。小山氏の乱などを鎮圧し鎌倉公方の地位を揺るぎの無いものとした。
3代:足利満兼:在位1398 - 1409
氏満の子。後に「上杉禅秀の乱」を起こす満隆は弟に当たる。1399(応永6)年の大内義弘が第3代将軍義満に叛旗を翻した「応永の乱」では、義弘と連携して府中まで出兵するも関東管領上杉憲定によって諫止。また、弟を東北の篠川御所、笹川御所として派遣し、京の幕府直轄の伊達氏らと争った。
4代:足利持氏:在位1409 - 1439
満兼の子。関東管領犬懸上杉禅秀(上杉氏憲)と叔父の足利満隆によるクーデター(「上杉禅秀の乱」)で一時追放される。京都の室町幕府将軍第5代将軍足利義量、前将軍義持が亡くなり将軍空位になると第6代将軍位を狙った。しかし、管領畠山満隆や満済によって義教が擁立されると謀反を計画。関東管領上杉憲実が京との仲介を行うもきかず、「永享の乱」を引き起こす。上杉憲実と幕府軍の鎌倉侵攻によって自害。
5代:足利成氏:在位1499 - 1455
「永享の乱」で敗死した持氏の遺児。持氏と争った上杉憲実によって鎌倉に招かれ鎌倉公方となる。1454年に憲実の子である憲忠を謀殺し「享徳の乱」の引き金を引く。この乱によって、自身も鎌倉を追われ古河に移る。成氏の鎌倉放棄によって鎌倉府の歴史は終わり、鎌倉は政治の中心地としての機能を失った。栃木県野木町の満福寺に墓所がある。
[参照]鎌倉公方邸跡