頼家、病に臥せる
1203(建仁3)年には、鶴岡八幡宮の御宝殿では鳩が三度も死んだり、実に様々は不可思議な出来事が鎌倉で巻き起こっている。迷信と言ったりこじ付けと言ってしまうことは容易い。しかし、現代の人ですら自分自身の一大事には、何が転がったと言っては喜び、何が折れたと言っては悲しむ。だから、鎌倉時代の人々が、今では取るに足らないことに不吉な予感を感じたとしても批難すべきではない。
事実、7月20日に、第2代将軍頼家が急病で倒れた。
「あぁ、このことだったか」
鎌倉中の人々が囁(ささや)きあった。諸社寺への祈祷の効き目も無いということになると、和気、丹波の医師家が呼ばれ将軍の治療にあたった。ところが、最先端の医療でも頼家には回復の兆しが見られない。陰陽師が占うと怨霊が付いているという。
祈祷も駄目、治療も効き目なしということで、御家人衆が集まって万が一に備えて評定を行った。その場で、
「逢坂の関から西の33ヶ国の地頭職は弟の千幡(後の実朝)に、関東22ヶ国の地頭職と日本全国の総守護職は長男の一幡に譲るものとする」
ということが決議された。頼家の権力が二分されたのである。これは頼家の遺言という形をとられたが、病床に臥せって意識すらない頼家に、そうした遺言することが出来ないことは言うまでもない。頼家の権力が二分されるということを知って、頼家の妾の若狭局とその生家の比企家は憤った。比企判官能員は頼朝以来の有力御家人であり、北条家が北条政子を通じて頼朝に結びつくことで立身したことに対抗して、頼家と結び外戚となることで権力を掌握しようとしていた。一幡が頼家から全てを譲られれば思い描いた通りになるのである。それが、頼家の弟の千幡との折半ということになると、権力構造も北条家と比企家の折半ということになってしまう。いや、二位禅尼こと北条政子が尼将軍として君臨している現状からすると、比企家が台頭する余地が少なくなってしまう。
いろいろと考え、悩み、苦しんだ比企一族はやがて妄想を抱いていく。一方で、その妄想を冷静にチャンスとして考えていた一族が確かにいた。