二月騒動
1271(文永8)年、モンゴル帝国の使者の趙良弼が筑前今津に到着。俄かに日本中がモンゴル帝国の来襲に備えて騒がしくなる。幕府はまず対策として、北条重時の孫の武蔵守北条長時の次男の治部大輔義宗を六波羅探題北方として、執権の庶兄の式部大夫時輔を六波羅探題南方として派遣。西国の堅めとした。鎌倉は両六波羅探題から九州、対馬、壱岐の情報を得た。本来なら両探題が協力しあって備えるべきだったのであろうが、協力関係は短い間しか続かなかった。そもそも、時輔は執権時宗の対抗馬として担がれる可能性があったために鎌倉から追放される形で京へと派遣されたという経緯がある。六波羅探題も長い間北方だけであって南方という役職は名目だけ存続していただけであった。六波羅探題南方とは言っても実権は何もなく、その実は北方の義宗の監視下に置かれていたというのが実態であった。
そのような状況に置かれて、口先だけではモンゴル帝国来襲への備えとして重んじられるという地位に甘んじられる時輔ではなかった。また、鎌倉から離れたことで時輔には鎌倉にいた時よりも更に人々が集まり始めていた。特に、北条朝時の孫の左近大夫北条公時、朝時の子の北条教時らが時輔を担いで執権時宗を討とうと計画していた。
モンゴル帝国来襲に備えて準備を万全にしておかなければならない鎌倉としては、計画を穏やかに握りつぶすのではなく、事前に武力で討伐する方針を立てた。そして、六波羅探題北方の義宗に命じて南方に攻め入らせ時輔を討たせた。同時に鎌倉でも公時、教時を討ち取った。なお、義宗は時輔の境地を哀れんで逃がしたとも伝えられている。