平禅門の乱
1293(永仁元)年、人々は内管領平頼綱入道果円の横暴を怖れるようになっていた。頼綱は安達泰盛父子を誅殺した直後は用心に用心を重ねて、執政に当たっても慎重に周囲の人々の意見に耳を傾けていた。しかし、権力の力というのは恐ろしいもので、大きな政治的ライバルがいなくなったということは頼綱の心をすっかり弛緩させることになった。それ以上に、新しいライバルが出てくることを過度に警戒し、その芽を摘み取るということに躍起になった。そして、それは恐怖政治へと結びついていった。また、次男の飯沼判官助宗は父親の威を借りて父親に増して横暴さを極めた。
助宗は飯沼殿と呼ばれ、主君に当たる得宗家の北条貞時を軽んじた行動が目立つようになっていった。遂には、頼綱、助宗父子は、第8代将軍久明親王を廃し、執権北条貞時一族を打ち滅ぼして、助宗を将軍に就けようと画策し始めた。これに驚いたのが、頼綱の長男の宗綱であった。宗綱はかねてから父親の横暴な振る舞いと恐怖政治に反感を覚えていたのだ。父親への不孝ということにはなるけれども、陰謀を暴かなければ主君貞時への不忠となってしまう。思い悩んだ宗綱は、まず、父子を諫止したが、父子は逆に宗綱を討とうとした。このために、宗綱は頼綱、助宗父子の陰謀を貞時に告発したのだった。
貞時は驚くとともに、日頃から心苦しく思ってきた頼綱を排除してしまう良い機会だと捉えた。このような機会を待っていたのである。しかし、今までは頼綱の政治力があまりにも大きかったために主君とは言っても手出しが出来ない状況だった。それが、皆が同じように頼綱の横暴を心苦しく思うようになってきていたので、頼綱を討伐しても頼綱の反撃を受ける可能性は低いとみたのだ。
貞時は密談を凝らし兵を集めた。その上で頼綱父子を得宗邸に呼んだ。これはいわば頼綱が安達泰盛を殺害した霜月騒動の再現でもある。権力を完全に掌握していると甘く考えていた頼綱父子はいつものように得宗邸へと足を踏み入れた。しかし、そこに待っていたのは武装した武士達だった。さしたる抵抗もなく父子は討ち取られた。一説によると、頼綱父子は経師ヶ谷にて討ち取られたとも言う。
宗綱は父親の陰謀を告発した側だったので何も罪に問われなかったのだが、自分で不孝の罪を背負って佐渡への配流を希望したという。後に許されて内管領に返り咲いている。