文永の役
1274(文永11)年、筑紫探題から鎌倉に急使が飛んだ。大型船300艘など合わせて900艘、総勢25,000の軍勢が日本に向かっているというのである。モンゴル艦隊はまず対馬の西岸の佐須の浦に上陸。報せを受けた対馬守護代宗資国は80余騎で出陣したが、衆寡敵せず全滅。対馬の次ぎの元軍は壱岐に上陸。壱岐守護代平 景隆は樋詰城から応戦するも落城し自害。対馬壱岐の男は虐殺され、女は手に穴を穿たれ舷に吊るされた。
対馬壱岐全滅を知った太宰府は御家人の筑前への集結を指示。元軍は松浦の鷹島から松浦へと進撃し松浦党が撃退。戦線は博多へと移った。元軍は九州の中心である太宰府占領を目指して博多・箱崎に主力部隊を結集させて上陸を開始。一方の日本側は少弐資能の子の景資が軍勢の指揮に当たっていたが、攻められて博多と太宰府の中間にある水木城へと撤退。箱崎の筥崎八幡宮の神体は万が一に備えて山上の極楽寺へと移されるほどであった。やがて、箱崎周辺も焼き討ちされ近辺は元軍の制圧下に置かれた。
劣勢に立たされた日本を救ったのは大風だった。海が荒れたことで元軍は被害を受けて撤退したのである。しかし、あくまでも余力を保ったままでの撤退であり、日本は二度目の来襲に備えなければならなかった。