北条宗方の乱
1305(嘉元元)年、北条貞時が出家してまもなくのこの年、北条駿河守宗方と北条相模守師時が内部抗争を展開し始めた。宗方は北条宗頼の子で六波羅探題北方から評定衆、引付衆頭人、侍所別当を歴任していた。師時とともに執権北条時頼の孫である。師時はまた貞時の婿でもあった。両人とも北条一門の中で非常に中枢にいたのである。そのためにお互いに反目しあっていた。また、師時と連署の時村とは親しい間柄であったので、宗方は侍所別当という地位を利用して、下知を飛ばし謀反の罪で時村を討伐した。
時村の家臣はいきなり幕府軍に攻められたので大混乱となったが、何人かが命からがら貞時の得宗邸へと駆け込んだ。もちろん、貞時は連署時村を討伐する意思などない。貞時は怒り心頭に達し、北条陸奥守宗宣と宇都宮貞綱を大将として400余騎を出陣させた。宗方の側近は始めから覚悟していたが、宗方の独断とは知らず侍所としての命令に従っただけの御家人の動揺は抑えがたかった。それでも、宗方側は奮戦。戦闘は長い間続いた。それでも、400余騎には叶わず揃って討死の最後となった。
連署の時村を失った貞時の怒りは凄まじく、鎌倉中に宗方の与党を探索させ死罪とした。また、執権師時を支える連署には宗方討伐の軍を率いた宗宣を就けた。