北条時頼
1227年6月29日(安貞元年5月14日) - 1263年12月24日(弘長3年11月22日)。鎌倉幕府第5代執権(在職 1246年 - 1256年)である。北条泰時の孫で、北条時氏の次男。母は安達景盛の娘・松下禅尼。
幼名は戒寿という。幼い頃から聡明で、祖父・泰時にもその才能を高く評価されていた。1238年、営中に於いて元服。将軍、九条頼経の名一字を賜って時頼と名乗る。同年、左兵衛少尉に補任。1243年、従五位下左近衛将監に叙任。翌年、従五位上に昇叙。1246年、兄の北条経時が病に倒れたため、執権職を継ぎ、鎌倉幕府の第5代執権となる。翌年、相模守に転任(一説には、1249年とも)。
執権職を継いでまもなく、兄の経時は病死した。このため、鎌倉幕府第四代将軍であった九条頼経をはじめとする反北条勢力が勢いづき、1246年5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が謀反を起こすという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧すると共に反北条勢力を一掃し、7月には頼経を京都に送り返して執権としての地位を磐石なものとしたのである。
翌、1247年には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。これにより、幕府内において北条氏を脅かす御家人は完全に排除され、北条氏の独裁政治が強まることになったという。1251年、正五位下に昇叙。翌年には第五代将軍・九条頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、皇族将軍の始まりである。
しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、1249年には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。このような経緯から、時頼は歴代執権の中でも名君として高く評価されている。
1256年、時頼は病に倒れたため、執権職を一族の北条長時に譲って出家し、最明寺入道と号した。しかし執権職から引退したとはいえ、実際の政治は時頼が取り仕切っていたという。時頼には嫡男・北条時宗が1251年に誕生していたが、このときはまだ6歳という幼児だったために執権職を継がせるわけにもいかず、長時を代行として執権職に据えて、時宗が成人した暁には長時から時宗へ執権を継がせるつもりであったと言われている。だが、引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先がけになってしまった。
1263年、最明寺で病のために死去した。法名は最明寺道崇。菩提所は鎌倉市山ノ内の福源山明月院。また、静岡県伊豆の国市最明寺にも分骨された墓所がある。