北条時政
1138(保延4)年 - 1215年2月6日(建保3年1月6日)。源頼朝の妻北条政子の父。伊豆国の在地豪族の北条時方の子、母は伊豆掾伴為房の娘。通称は北条四郎。鎌倉幕府の初代執権。
源頼朝が伊豆に流されその監視役となる。娘の政子が頼朝の妻となった縁から、1180年の頼朝の挙兵に同陣した。その後は頼朝配下の有力重臣として活躍し、1185年の伊勢平氏の平清盛一族の滅亡後、頼朝の命を受けて上洛し、守護と地頭の設置を認めさせるべく、朝廷との交渉に当たっている。幕府が創立されると重用され、頼朝の外戚として勢力をふるう。
1199年、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や源頼家の外戚に当たる比企能員らを大江広元・仁田忠常らとともに殺害した。1200年、さらに、北条の家格を上げんとして将軍の外祖父である立場を利用し娘・政子を経由して、鎌倉幕府草創当時源家一門にしか許されなかった国司への叙任を願う。これによって時政は従五位下遠江守となり、源家一門以外で、御家人として初の国司となった。また、源頼家を将軍から廃したうえで1204年に伊豆国修善寺で殺害するなどして政敵を排除した。そして頼家の後継者にその弟に当たる源実朝を擁して自身は自ら執権職に就いたのである。
1205年には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼし、さらに同年7月には後妻の牧の方と共謀して娘婿にあたる平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしたが、子の北条義時と政子の反対にあって失敗し、強制的に出家させられたうえで隠居の身分となり、以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。法名は願成就院明盛。菩提所は現在の静岡県伊豆の国市韮山の天主君山願成就院。