北条泰時執権治世
1224年、父の第2代執権義時が急死したため、鎌倉に戻って家督を相続し、第3代執権となった。翌年には伯母の北条政子や有力幕臣の大江広元が相次いで没したため、幕府内で不穏な空気が流れたが、泰時は叔父の北条時房を執権を補佐する連署に任じてその地位を磐石なものとした。さらに評定衆を設置して、有力御家人による合議制を確立する。1232年には最初の武家の法典であることで有名な御成敗式目(貞永式目)を制定した。鎌倉の都市整備も行う。同年、正五位下に昇叙。1236年には従四位下に昇叙。同年、左京権大夫を兼任。1238年に従四位上に昇叙。同年、武蔵守、続いて左京権大夫を夫々辞任。1239年には無官ながら正四位下に昇叙。
泰時は父・義時同様に朝廷に対しては厳しい態度で臨み、1242年に四条天皇が崩御したため順徳天皇の皇子が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに猛反対し、後嵯峨天皇を新たな天皇として擁立しているのである。そして同年、病没。法名:常楽寺観阿。菩提所:鎌倉市大船の粟船山常楽寺。