北条貞顕
1278(弘安元)年 - 1333年7月4日(正慶2年/元弘3年5月22日)。鎌倉幕府第15代執権(在職 1326年3月16日 - 3月26日)。金沢流北条顕時の子、母は摂津の御家人の遠藤氏の娘。正室は北条時村の娘。姓は北条であるが、主に南北朝時代以降の文献には、屋号を用いて金澤(金沢)貞顕と記すものもある。読みは「かねさわ」と読む。
兄弟、姉妹に、顕弁、北条顕実、北条時雄、北条顕景、名越時如室、千葉胤宗室、足利貞氏室などが確認されている。子は顕助、北条貞将、顕恵、貞冬、貞匡、貞高、貞助、道顕。
鎌倉幕府の要職を務める北条氏金沢流の後継者として、1296年に出仕。父の顕時は85年の霜月騒動で連座しており、貞顕の出仕にも影響を与えたと考えられている。1302年中務丞補任、25歳で大仏宗宣の後継として六波羅探題南方に就任して上洛、京都以西の責任者となる。一旦解任され鎌倉に戻るが、1年ほどで六波羅探題北方となる。1304年越後守に転任。その間、自身は文献の写本にはげみ、金沢文庫の充実をはかっている。1305年には鎌倉で内管領の北条宗方が、連署で貞顕の舅に当たる北条時村を殺害、その後時村の誅伐が陰謀であると発覚すると宗方派が処罰される嘉元の乱が起こり、貞顕の身内も影響を受けている。1308年に辞任して鎌倉に帰還し、引付衆となる。1310年には六波羅探題北方として再び上洛。
1326(嘉暦元)年、14代執権北条高時が病気で辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。後継を定めない高時の出家は、次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と、高時の弟の北条泰家(のちの時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する。3月、貞顕は内管領長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。貞顕の執権就任に反対した北条泰家は出家し、これにより貞顕暗殺の風聞まで立ったため、貞顕は同月26日に執権職を辞職し出家する(法名は崇顕)。16代執権には北条守時が就任した。一連の騒動は嘉暦の政変と呼ばれる。
1333(元弘3年/正慶2年)年、後醍醐天皇の倒幕軍に味方した足利高氏(尊氏)の京都の六波羅探題攻略のあと、新田義貞率いる軍が鎌倉を攻める。貞顕は化粧坂を守るが、軍記物語『太平記』によれば元執権の高時らとともに北条氏菩提寺の鎌倉・東勝寺で自刃したとされる。享年56。金沢文庫の古文書の中には、彼の書状が642通現存している。