継体天皇陵

2007年3月に調査が終了した大阪府高槻市の国史跡・今城塚古墳は継体天皇陵だと考えられている。根拠の一つは今城塚古墳が6世紀前半の前方後円墳としては最大の規模を持っていること。発掘調査でも中堤上で形象埴輪群が発見されてもいる。但し、古墳時代後期の古墳の横穴式石室は下部を地山に掘り込んだ穴の中に納める。それが、今城塚の場合は後円墳の北側という墳丘の高い位置で大規模な積み石が見つかっている。京都府宇治市の二子塚古墳や奈良県高取町の市尾墓山古墳の例にあるように横穴式石室は石組みが付き物。今城塚古墳の場合も大規模な積み石が見つかった位置が横穴式石室のあった位置だと考えられる。もっとも、石室自体は16世紀頃の城郭建設によって破壊されてしまっている。しかし、古墳時代後期の初期に当たる6世紀前半では墳丘の高い位置に石室が置かれる場合もある。

この石組みの周囲から播磨の竜山石、肥後の阿蘇石、二上山の凝灰岩といった石棺材が発見されてもいる。つまり、今城塚古墳が継体天皇の陵墓であるとしても、別に2つの石棺があったことになる。3つのうち、竜山石は5世紀代の大王墓の長持型石棺に用いられていることから、竜山石をもって継体天皇の石棺と考える向きが多い。ところが、6、7世紀になると阿蘇石製舟形石棺の流れを汲む刳抜式石棺が主流になったこと、5世紀中頃の大王墓陪塚に阿蘇石石棺があることから阿蘇石のものを継体天皇のものとも推測される。

今城塚古墳は大王墓で最初の横穴式石室とする考え方もある。しかし、大型前方後円墳と横穴式石室の組み合わせは天理市の東乗鞍古墳、市尾墓山古墳といった5世紀末から6世紀初の古墳に既に見られるもの。大王墓だけ6世紀を待たなくてはならないという理由は特にない。更には、大阪の古市古墳群、5世紀後半以降の仲哀陵とされる岡ミンザイ古墳、仁賢陵とされるボケ山古墳も横穴式である可能性が残されてもいる。仲哀天皇(足仲彦)は神功皇后の夫・応神天皇の父であり継体天皇の祖。この点から考えても今城塚古墳を最初の横穴式石棺を持つ大王墓とは言えないだろう。


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