三浦一族の墓
法華堂の丁度裏手、大江広元の墓へと至る階段の横のヤグラにあるのが1247(宝治元年)の合戦で滅ぼされた三浦一族の墓。
三浦一族は源 頼朝(鎌倉殿)の挙兵時に馳せ参じた名門。北条氏の黙認のもと攻め入った安達氏の軍に御所近くの屋敷を引き払って、頼朝所縁(ゆかり)の法華堂に立て篭もって、三浦泰村、光村、家村、資村、大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司実章、関左衛門政泰ら一族276名、郎党500余人が自害した。
[参照]三浦道香の墓[逗子延命寺]
法華堂の丁度裏手、大江広元の墓へと至る階段の横のヤグラにあるのが1247(宝治元年)の合戦で滅ぼされた三浦一族の墓。
三浦一族は源 頼朝(鎌倉殿)の挙兵時に馳せ参じた名門。北条氏の黙認のもと攻め入った安達氏の軍に御所近くの屋敷を引き払って、頼朝所縁(ゆかり)の法華堂に立て篭もって、三浦泰村、光村、家村、資村、大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司実章、関左衛門政泰ら一族276名、郎党500余人が自害した。
[参照]三浦道香の墓[逗子延命寺]