近江国

『和名抄』に「ちかつあふみ」とあり『延喜式』では大国にランキング。かつて、667(天智6)年から5年間首都であった近江大津宮、聖武天皇が745(天平17)年に遷都した紫香楽宮、淳仁天皇の保良宮が置かれた。

寿永3(1184)年に佐々木秀義が鎌倉幕府開幕の功によって近江守護に任じられて以来、定綱、広綱と続き、承久の乱の後には信綱と守護職は佐々木家が伝えた。信綱の跡は三男で京六角東洞院に屋敷を構え六角と称した泰綱が守護職を承継。後に守護職を二分することになる京極家を四男の氏信が立てた。鎌倉幕府を倒した足利高氏の朋友で勲功のあった佐々木道誉は本家の六角家ではなく分家の京極家の出身。しかし、六角氏頼が幼少であったことから建武3(1336)年に守護に任じられている。もっとも、これは例外的なことで、道誉死後は再び本家の六角氏頼が守護となった。氏頼は家督を幼少の義信に譲り、後見の山内六角信詮が守護職に就いた。しかし、信詮が「観応の擾乱」に際して足利直義方に付いたために守護職は兄の六角直綱が就任し、再び義信が就任するまで中を継いだが義信は早世。再び守護職となった氏頼の跡は満高が家督を承継したが幼少のため猶子の京極高詮が守護職を務めた。これも例外的な措置と言える。

室町幕府の支配体制が確立すると、近江は南北に二分されて守護が置かれた。このうち、南近江の守護職は六角満高が就いた。満高の跡を継いだのが満綱だったが永享の山門騒動鎮圧に反発して勃発した土一揆収拾の責任を取って家督を持綱に譲った。ただ、この家督承継に異議を唱えた国人層が六角時綱を擁立し満綱・持綱を攻め滅ぼした(「文安騒動」)。勝った時綱であったが幕府の反感を買い守護職は六角久頼の手中となる。この人事も禍根を残す結果となる。久頼の子の高頼は一旦は守護職を許されたものの幕府によって追放され、何と「文安騒動」の勝者であった時綱の子の政尭が守護職となる。これでも落ち着かず、寛政元(1460)年には追放されていた高頼が返り咲く。この頃、既に六角本家の力は弱体化し、守護代の伊庭満隆が南近江を実効支配していた。更に、「応仁の乱(1467−78)」が勃発すると六角高頼は西軍に与したが、東軍も守護を任命し、南近江は本家の六角家と分家の京極家が並び立つ状況に至る。東軍というのは室町幕府軍に他ならないため、応仁の乱が収束すると六角家は幕府から追討を受ける。加えて六角家自体が守護代家伊庭家に脅かされる形に。しかし、六角家の支配は永禄10(1567)年に観音寺城が織田信長によって落とされるまで細々と継続した。

一方の北近江は分家の京極家が伝えた。まず、佐々木道誉の守護職を子の高秀が受け継ぎ、足利義詮の寵愛を受け、京極家は山名・一色・赤松と並ぶ四職家に名を列した。その子の高詮は「明徳の乱」の武功によって出雲、隠岐、石見、飛騨の守護となり京極家の地位を不動のものとした。その後は高光が継ぎ、高数が継いだ。高数は「嘉吉の乱」で足利義教とともに赤松邸で討死し、応仁の乱まで持清が家督を受け継いだ。「応仁の乱」では東軍に付いた京極家は勢力を南近江にも拡大したものの、持清の死後は次男政光の後見する高清が家督を継ぐが政光の弟の政高が事実上家督を奪った(「文明の内訌」)。この家督争いは「応仁の乱」終結後も続き高清、政高が京極家を二分する事態に。そうした中で、京極高清に従って六角家と闘った浅井亮政が次第に京極家に背き越前朝倉家と結んで京極高広を逐った。この亮政が、織田信長の妹の市を娶った長政の祖父に当たる。

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