美濃国
美濃の守護は文治3(1187)年に大内惟義が任じられ承久3年に惟信が伊賀伊勢の守護職と兼務。建長4(1252)年に一時期、宇都宮泰綱が任じられるが、弘安8(1285)年に北条氏の支配するところとなる。室町時代になると、足利高氏に従った土岐頼貞が美濃の守護に補任された。土岐氏は美濃源氏の名門。頼貞の跡を頼遠が継ぎ、頼遠が康永元(1342)年に光厳上皇に無礼を働き諸兄されると頼康が厚見郡革手城に本拠地を構えて土岐家を承継した。以後、美濃守護土岐家は革手を本拠とし続ける。土岐家が斉藤家を従えたのもこの時期。頼康は観応元(1350)年の土岐周済、頼直の叛乱を足利義詮とともに鎮圧。武功によって尾張守護職を兼務することとなる。頼康の跡は康行が継ぎ美濃、尾張、伊勢三国の守護を務めるまでになる。しかし、土岐家の勢力拡大を苦々しく思った足利義満は弟の満貞を尾張守護に任命。尾張新守護満貞と康行の従兄弟の尾張守護代詮直が尾張黒田で戦い入国を阻止するが、かえって康行が謀反人とされ足利義満の命令を受けた土岐頼忠・頼益父子に追討されてしまう。明徳元(1390)年から一時期美濃守護職は西池田土岐頼世が承継するも、結局は先の「美濃の乱」で活躍した土岐頼益に職を譲った。頼益の跡は持益が立つ。しかし、早世した持兼の孫に家督を継がせようとしたことから、一色義遠の子の成頼を擁立した斉藤利水と対立。結局、成頼が家督を継ぎ土岐家の影響力は低下を余儀なくされる。
その傾向は土岐成頼が「応仁の乱」の西軍方として美濃を不在にすると拍車が掛かる。守護不在の美濃経営を支えた斉藤妙椿が没すると、土岐成頼の嫡子政房を擁立する斉藤利国と末子の元頼を擁立した守護代石丸利光が対立(「船田合戦」)。利国が勝利を収め政房が守護職に就任する。この斉藤利国は近江の六角家との戦いで戦死し斉藤家は家宰の長井家が実質的に支配するところとなった。土岐守護家を支配していたのは斉藤家であるから美濃は長井家の手になったことになる。
ここで、かの斉藤道三の登場となる。政房の後の家督を承継した土岐頼武の家督争い対して、長井長弘と西村正利と名乗っていた斉藤道三は頼芸を擁立し頼武を越前に追放。更に、西村正利は稲葉山城を本拠地として大桑城の守護頼芸を攻め尾張に敗走させた。土岐頼芸は再起を図るが結局敗れ、美濃は土岐家から斉藤家のものに移った。
こうして美濃一国を切り取った斉藤道三は弘治2(1556)年に嫡子の義竜と闘って戦死。義竜の跡を竜興が継ぐが道三から美濃を託されていた尾張の織田信長によって攻め滅ぼされた。
美濃は、土岐守護家が革手に、土岐家が従えた美濃豪族で守護代の斉藤家が加納に、長井家が稲葉山に居城を構えるなど現在の岐阜市が中心となっていた。この地は、また、鎌倉時代からの名門千葉家の血を受け継ぐ東家所縁の地であり、土佐山内家の初代藩主山内一豊の妻千代の故郷でもある。
稲葉郡
旧厚見郡、旧各務郡、旧方県郡が明治時代に合併して誕生。旧厚見郡の岐阜には織田信秀が岐阜城にあって岐阜藩を構えたが関が原の戦いによって除封され廃藩。かつて守護代斉藤家が本拠を置いた加納には、奥平信昌が慶長6年に上野小幡より入り、奥平家の支配が続くが寛永9年に奥平忠隆が除封。代わって、武蔵私市から大久保忠職が入り5万石で大久保家を復興。忠職が寛永16年に播磨明石へと移封になると、明石から入れ替わりに戸田松平光重が7万石で入る。戸田松平家も正徳5年の光煕の代で山城の淀に移り、備中松山から安藤信友が入り宝暦6年信成が磐城平に移されるまで続く。その後は岩槻藩から永井信陳が3万2000石で入り幕末を迎えた。
旧各務郡には宝永2年から宝永6年までの短期間本庄道章が統治する岩滝藩が置かれていた。
山県郡
本巣郡
羽島郡
旧羽栗郡、旧中島郡旧中島郡には、加賀井秀望が1万石を領していたが慶長5年に廃藩。
海津(かいづ)郡
養老郡
旧多芸、旧上石津郡、旧下石津郡石津郡には原勝胤の太田山藩があったが慶長5年に除封とともに廃藩。高須藩は当初高木盛兼が治めていたが除封され、代わって徳永寿昌が入る。寛永5年に徳永昌重が除封されると一旦は廃藩。しかし、寛永17年に関宿から小笠原貞信が入り元禄4年に越前勝山へ移るまで統治。元禄13年には松平義行が入るが明治3年には尾張藩に併合された。石津郡にはその他に関一政が3万石で多良藩に封じられていたが慶長6年に伊勢亀山に移封とともに廃藩。
揖斐郡
旧池田郡、旧大野郡旧大野郡には揖斐藩と大垣支藩大垣新田藩、清水藩、野村藩があった。揖斐藩は曾根から入った西尾光教から始まったが西尾家が元和9年に嘉教の代で除封になると廃藩となった。大垣新田藩は明暦元年に戸田氏経が大垣藩主戸田氏信から分与を受けて立藩。氏成の代に三河畑村に移封となって廃藩。清水藩は稲葉通重が治めたが慶長12年に除封され以後廃藩。野村藩は織田長孝が慶長5年に新封されたものだが寛永8年に長則の代で除封され廃藩。