上野国
上野国、現在の群馬県というと清和源氏の名門の新田義貞で知られる新田氏の地。但し、鎌倉時代にあっては新田氏の存在感は隣の足利氏に比べて極めて薄い。これは、新田氏が源頼朝の挙兵に際して自らも源氏であるということで距離を置いたことに原因がある。そのために、上野国の守護職は1285(弘安8)年の霜月騒動で安達氏が滅ぼされるまで、景盛、義盛、泰盛と安達氏が任じられていた。安達氏が鎌倉で得宗被官の平頼綱に滅ぼされると、上野国は北条得宗家の支配するところとなった。最初の守護代となったのは安達泰盛を滅ぼした平頼綱自身が就いた。そして平禅門の乱で平頼綱が討伐された後も、上野国は平頼綱の一族である長崎氏が支配した。このため、新田一族は長崎氏の支配下に甘んじざるを得なかった。
鎌倉幕府倒幕の尖兵となったのが新田氏の総領であった新田義貞であったというのは長年軽んじられてきたことからすると当然だったとも言える。そして、鎌倉幕府が倒れると新田義貞が守護に任じられる。ところが、悲しいかな、長い間重職に就いていなかったことは人望を集めることが出来ないということにつながってしまった。ために、1335(建武2)年に鎌倉にいた足利高氏が後醍醐天皇が主導する革新復古的な建武新政権に叛旗を翻すと上野国の守護職は足利方の重臣上杉憲房の手になる。そして、一時期、宇都宮氏綱が就任した時期を除いて、室町時代を通じて上杉氏の家職となっていく。上杉守護のもとでほぼ守護代を占めていたのが長尾氏。
上野国守護職を相伝したのは山内上杉家。しかし、1467(応仁元)年に守護職に就いたのは越後上杉家に出ていた顕定。上杉顕定は古河公方足利成氏と対立し、ここに長尾景春が叛旗を翻すなど劣勢に立たされる。窮地を救ったのは江戸城を築いたことで知られる太田道潅。1478(文明10)年に古河公方と山内・扇谷両上杉家の間に和議が成立すると、武功のあった太田道潅は主君の扇谷上杉定政は道潅が山内上杉顕定に通じていると疑心暗鬼となって道潅を暗殺してしまう。この後、山内・扇谷両上杉家の対立は激しくなっていく。関東管領上杉顕定は弟の越後守護上杉房能が長尾為景に暗殺されると報復のために出兵。しかし、信濃国人高梨政頼らが反乱したために越後長森原で戦死。子の憲房は上野国へと逃れた。
そうこうしているうちに、1525(大永5)年に小田原の北条氏綱が上野国に隣接する武蔵国に、続いて上野国にも侵攻。もはや上杉の劣勢覆い難く上杉憲房の子の憲政は河越夜戦の後に平井城に退く。平井城は現在の藤岡市の南西に位置し鮎川の断崖にある。平井城にあった憲政は箕輪城主長野業政の諫言を聞かずに信濃にまで出兵し武田信玄と対決。かえって国内の乱れを生み、国内は北条の勢力圏に組み込まれていった。そして、遂に嫡子の龍若丸を残して上野国から越後国へと落ちていく。龍若丸の後見として目加田兄弟と九里采女正が据えられていたが、彼らはあろうことか北条氏康に龍若丸を差し出してしまう。結局、龍若丸も小田原の一色松原で斬られ目加田も九里も逆臣として磔となった。ここに名門上杉氏による上野国支配は終わりを告げた。これで上野国が北条氏の支配となったわけではなく、は山内上杉氏の家督を承継した越後の長尾景虎と、相模小田原の北条氏と、甲州の武田信玄の合い争う場と化したのである。
武田氏の滅亡後に上野国に入ったのは織田信長配下の滝川一益。一益は厩橋にあって関東管領に任命されていたというが、本能寺の変で織田信長が倒れると北条氏に追われ命からがら伊勢長島に逃げ帰った。滝川一益は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀に並ぶ宿老だったが事実上失脚した。