瑞応山大報恩寺(千本釈迦堂)


千本釈迦堂といったほうが分かりやすい。北野詣でをした後、上七軒を通って千本釈迦堂に赴く。3月という季節のせいもあるのだろうか、この辺りには観光客が少ない。ほとんど見かけなかったと言って良いかもしれない。この由緒正しき場所に辿りつく間の道も実にのんびりとしている。
この釈迦堂は京都中を焼き尽くした応仁の乱の際にも戦火を免れたという貴重な寺。この一帯は東軍西軍入り乱れて刃を交わした所であり、実際、本堂の中には刀傷を認めることが出来る。そのような中にあって、焼失を免れたということは、将に寺の紹介の如く奇跡としか表現のしようがない。
そもそも、この釈迦堂、正式名称は大報恩寺ではあるけれども、通称で通させてもらうとして、安貞元(1227)年というから鎌倉時代の初期に当たるけれども、その年に東北の勇、藤原秀衡の孫、義空上人によって創建されたという古い歴史を持っているという。東北に花開いた藤原三代の栄華の名残に京都で出会うことが出来るとは思いもしなかった。本堂は、その創建当時の姿をそのままに現代に伝えている。寺地は、創建に先立つ承久3(1221)年に藤原光隆の臣である岸高の寄進によるもととされる。当初は一仏十弟子像に小堂のみだったが、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として大規模伽藍を営むに至ったという。それらは、本堂を残して応仁の乱で灰燼と化したことは誠に残念。
とはいえ、行快作の本尊釈迦如来坐像、快慶作の木造十大弟子立像、六観音菩薩像、千手観音立像などを始めとする多くの文物は焼失を免れている。
その意味で、将に千本に咲くタイムカプセルと言える。
この寺、もう一つのエピソードが知られている。「おかめ伝説」が、それである。千本釈迦堂建立に際して、大工の棟梁が柱を誤って短く切ってしまったことを知った妻が、短い柱に合わせて全ての柱を切りそろえるように智慧を授ける。これで目出度し目出度しといけば良いのであるが、この優しき妻は夫の失敗が露顕することを恥じて釈迦堂完成前に自らの命を絶ってしまったという。誠に切ない話である。この"おかめさん"を供養するために"おかめ塚"が築かれ、また、全国の大工の信仰を集めるようになったとのこと。
本堂の脇では沢山のおかめさんの像などが、ふくよかな顔で出迎えてくれる。その顔を見るだけでは心和むだけであるけれども、その謂われを知ると、少し胸に来るものがあった。

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