補陀洛山六波羅蜜寺
2度目の訪問。
鎌倉時代の作で重要文化財の空也上人像、同じく重要文化財で、これも同じく鎌倉時代の作とされる平清盛坐像で有名。
これは前回の参詣の時に間近で拝見した。
六波羅蜜寺というとこうした彫像群を思い浮かべる向きが多いかと思う。この点、私の場合は、六波羅イクォール平清盛ら平家の京都における拠点、鎌倉時代では幕府の出先である六波羅探題の地、探題南方の北条時輔が二月騒動で討たれた地、それから鎌倉幕府軍と倒幕軍とが攻防を繰り広げた地といったことが浮かぶ。
京都は数々の歴史の舞台となったところであり、そこかしこに歴史の息吹を感じることが出来る。それでも、六波羅と聞くといろいろなことを思い浮かべる。
その六波羅の地に、天暦5(951)年に醍醐天皇の第2皇子光勝空也上人が建てたのが六波羅密寺。ということは、平家の興亡に先立つわけで、この寺はそうした歴史をずっと見つづけてきたということになる。益々、歴史の流れを感ぜざるを得ない。
空也上人亡き後は中信上人によって支えられ天台別院として大いに栄えたと言う。
そして、将に、この六波羅密寺の地に平忠盛が拠点を構え、清盛・重盛の代にわたって多くの邸宅を境内に構えたとのこと。この寺は平家政権の中枢に位置していたということになる。目を瞑ってみると、CGの如くに荘厳な邸宅群に囲まれた街区が蘇る。
平家の滅亡は、そうした街区を灰燼と化すものだった。当時を物語る平家由来の建物が、六波羅の地にないことが、そのことを示している。六波羅密寺は源頼朝によって復興されたものの、それからも災難は続き、北条時輔追放の二月騒動の際にも、倒幕軍対北条軍の戦いの際にも、六波羅は戦場となった。
六波羅の地にようやく平安が訪れたのは、足利氏が統治するようになってから義詮によって復興が図られてからと言えるのだろうか。時代は下って、豊臣秀吉による今は無き大仏建立の際に修復がなされてから以降は兵火に焼かれるという歴史を経ずに現代に至っている。
現在、目にすることの出来る本堂は非常に歴史が古く貞治2(1363)年のもの。新しく感じられるのは、昭和44(1969)年に解体修復がなされたということと、歴史に魅了されて訪れる数多くの人々と人々の信仰がそうさせているのかもと感じる。