今日吉神社(京_祇園)

智積院と妙法院の間に挟まれた地に鎮座する。
日吉という名称と、この辺りの地が豊臣氏所縁の地であることから豊国社に関係があるのかと思われる向きも少なくない。しかし、この新日吉(いまひえ)神宮は豊臣氏よりも遥かに歴史が古い。永暦元(1160)年に後白河法皇が御所としていた法住寺の中に日吉大社を勧進したことに始まる。
為に、後白河法皇を素戔鳴(スサノオ)尊、大年神とともに祀る。当初は現在の京都市立美術大学の地にあったものを、元和元(1615)年に徳川幕府によって豊国神社が破却されたことにより、豊国廟前に移転。この移転は豊国廟に至る参道を完全に潰し、参道を遮る形で行われたという経緯を持っている。京都における徳川家による呪術と言える。さらに、徳川幕府が滅んだ後、明治30(1897)年に現在の地に移転した。智積院と妙法院という大寺に挟まれ訪れるのは京都女子の学生のみの感があるが、歴史も古く、流造の社殿も天保6(1835)年の建立のものを受け継ぐ。それだけではない。後白河法皇所縁の社とあって歴代上皇、歴代帝の行幸は数多いという。また、宮司家に帝の宸筆や江戸後期の小沢蘆庵などの文学者の原稿を伝えている。

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