10月10日(木曜日)

 さて、日を跨っての夢の話。
そういえば、今日も夢を見たのだけれども、残念ながら内容は覚えていない。
取るに足らない夢だったのか。
たはまた、夢を見たという夢だったのか。
真実は夢のみぞ知る。ではなくて、私の脳みそのみそ知る。
 その夢の話。
なんで、そうも拘るのか。それにはきちんとした訳がある。
いつも、夢を見るときは、その夢の舞台はおおまかにいって現実に行ったことのある場所であることが多い。
これはあくまでも個人ベースでの話であって、一般的にそうなのだということではない。一般的には違うのかもしれない。
 私、個人に限っていうならば、実際に見知ったところが舞台になることが多い。
多いと言ったのは、そうではない場合もないわけでもない。一度も行ったことのないような場所が舞台となっているときもある。
 しかし、そういうときの夢の舞台というのは実はその晩にテレビで見た場所であったり、小説で読んだ場所であったりする。これが事実。実に単純ではあるけれども事実なのだ。単純なり、わが脳みそよ。
 その単純にして愛すべきわが脳みそが単純ではないことを仕出かした。
乗っていたのはいつもの電車、当然に回りの景色もいつもの景色。
ここまでは何も変わらない。
 ガトン、ゴトン。心地よい電車の揺れに身を任せている間に、余りにも気持ちが良かったためについついうとうととしてしまったのだ。
電車がスーっと駅に入っていく。
その易しい衝撃が身を桃源郷から現実に緩やかに弧を描いて引き戻す。
そして、はっと、乗り過ごしてしまっていたことに、はたと気付く。
これはしまった。
慌てて電車から駅へと飛び移る。
しかし、である。
良く考えると、座っていたシートは通勤電車の横向きの窓に背を向けた近代版長椅子型ものだったはず。それが、一人一人別になった窓を横に見る形のものになっていたのだ。
それにである。
電車の色が綺麗になっていた。綺麗になったというのは正確ではない。
単に、綺麗になったのではなくて、色が綺麗な色に変わっていたのだ。
そして、異変はそれだけには留まらなかったのだ。
降りた駅にも確実に異変は及んでいた。さて、これは、私が一歩、足を踏み出す毎に周りの風景、いや世界が今まで私のいた世界から別の世界へと変わっていくのであろうか。
たとえ、百歩譲って電車の色は実は乗るときに気が付かなかっただけで、初めから綺麗な色の電車に乗車していたかもしれない。そう、新型の車輌だったかもしれない。これは否定出来ないだろう。
しかしだ、乗り越したとしても私が乗った路線は、私が降りるべき駅から数駅が終着点のはすである。そこから先はない。
だから、乗り過ごしたとしても、そこには所詮は見慣れた景色が拡がっているはずなのだ。
 それがである。
目の前にこれ見よがしに掲げられている駅名表示は「興津」。
なんだ、どこだ「興津」というのは。
「興津」へは行ったことはない。私の脳みそに近頃刻みこんだという形跡は私の体にはない。
なんだここは、この美しき景色は。そして、私は一体どうやってここまで来たんだ。
 そうして、好奇心のさらなる一歩を踏み出した瞬間に美しい風景は淡い余韻を残しながら掛け布団の柄へとスーっと変貌を遂げていった。

臥牛庵主人

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