"外国人"に保障される人権にはどのようなものがあるのか?

 「そもそも、"外国人"に人権享有主体性が認められるのかどうかが問題になるわ。」
 「人権の前国家的性格や憲法の国際協調主義からいって、一定の範囲で外国人にも人権の保障は認められるね(性質説)。」
 「否定説は支持されていないわね。それに、外国人に人権保障が及ぶことを認める考え方の中でも、憲法の条文の中で『何人も』と規定されている場合にだけ保障が及ぶんだというような文言説も、人権の前国家的性格に反するばかりか、例えば、国籍離脱の自由(§22-II)なんかは『何人も』と規定しているけど、日本国籍離脱の自由が日本国籍を持っていない外国人に保障されるのっていうのは可笑しいわね。」
 「というわけで、人権の前国家的性格や憲法の国際協調主義からいって、一定の範囲で外国人にも人権保障は及ぶっていうことを前提として、具体的に@自由権、A平等権(§14)、B社会権(§25)、C参政権(§15)、D受益権(裁判を受ける権利)が及ぶかを考えなければいけないね。」
(司昭39-2)
 政治活動の自由(§21)に関して「マクリーン事件」(最判昭53.10.4)出入国の自由(§22-II)に関して「森川キャサリーン事件」(最判平4.11.16)

 "外国人"に政治活動の自由というのは保障されるのか?
 「そもそも、"外国人"に人権享有主体性が認められるのかどうかが問題になるわ。でも、これは、人権の前国家的性格や憲法の国際協調主義からいって、一定の範囲で外国人にも人権の保障は認められるわね(性質説)。」
 「それから、政治活動の自由なんてものが憲法上の人権に当たるのかということを考えなければいけないよ。憲法の条文のどこを読んでみても、そういうことは書かれていないでしょ。でも、政治活動の自由というのは表現の自由によって保障されると考えられるね。」
 「で、政治活動の自由というのは表現の自由によって保障されるとして、果たして、外国人にも保障されるのかってことよね。この点については、政治活動が参政権的な意義を持っていることや、国民主権の概念からいって、外国人には政治活動の自由が保障されるとしても、日本人よりも大きな制約を受けるんだという『限定肯定説』があるけど、表現の自由の持っている価値の重要性や民主主義の価値相対性を考えるなら、日本人と全く同様に外国人にも政治的自由が保障されると考えるべきね(全面肯定説)。」
 [外国人の人権に関する主な判例]

 法の支配と日本国憲法について。
 「『法の支配』というのは、法によって、専断的な国家権力の行使を排除して個人の権利と自由を確保するという自由主義的原理のことね。その内容には、@憲法の最高法規性、A基本的人権の保障、それからB司法権の優位とC適正手続保障があるわ。」「法の支配の内容」、「『法の支配』と『法治主義』」
 「日本国憲法も、第三章をはじめとして、97条98条81条41条といった条文で『法の支配』を認めているね。」
 「その憲法を解釈するという場合にも、『法の支配』は大きな影響を及ぼしているのよね。」 「『法の支配』と憲法解釈」

 「パレート最適」、「コースの定理
[ 法における"個人" ]

 「法における個人というのは、法規範社会的な慣習を遵守する個人であって、さらには行為を行うもととなる判断において妥当性を兼ね備えた個人というものを想定しているよね。」
 「そこが、合理的経済人と呼ばれる経済分析における個人観とは異なるところよね。経済分析では、個人というのは自らの効用、つまり満足を最大化するために首尾一貫した行動をする個人よね。」
 「確かにね。でも、"現実の社会"ではみんなが法規範や社会的な慣習を守っているわけじゃぁないよね。違法駐車をしていて『俺には駐車する権利がある』とか言って居直る人とか、『周りの人がみんな信号無視したから私もしました』とかいう具合に個人できちんと判断しなくて、その場その場での合理性だけを追求していることがしばしば。こういう場合には、合理的経済人にも法における個人像にも当てはまらないね。」
 「そうはいってもよ、立場の違いはあるにせよ、法を守ることを職業としている弁護士や裁判官、検察官がその場その場の合理性だけ、つまりその日の気分で法の解釈なんかを変えたりしたら、市民からはどう見られるかしら。」
 「つまり、法における個人観というのは、法規範や社会的な慣習を遵守する個人だけど、法を守るべき法律家はそういう個人観を前提として、自身では合理的に首尾一貫した態度をとるべきだね。」
 「その点で、法の描く個人像と合理的経済人の概念が調和するのね。」