カロリング・ルネサンスへの流れ

「ゲルマン民族の大移動と西ローマ帝国の滅亡によって混乱と分裂が続いたヨーロッパ大陸を再び一つにする流れを作ったのがメロヴィング朝(481-751)と言えるだろうね」
「意識していたかどうかということを別にしてね。メロビング朝以外にも、多くの大国があったわけだけど、メロヴング朝の創設者のクローヴィスがアタナシウス派のカトリックに改宗(496)したことが大きな要因になったなんて言われている」
「他のゲルマン部族は異端のアリウス派だったためにローマ教皇の支持を得ることが出来なかったというんでしょ。それはどうかな。やっぱりクローヴィスの指導力が一番大きかったんじゃないのかな」
「それも一因。でも、卓越な個人の指導力ばかりに頼っていると、体制としては長続きしない。その例に漏れず、メロヴィング朝もトゥール=ポワティエ間の戦い(732)で宮宰カール=マルテルがイスラムのウマイヤ朝を破ったのを境にして、求心力を失っていくわね」
「王位が名目上のものとなって、終にはカール=マルテルの子に当たるピピン3世、小ピピンって呼ばれるけど、その小ピピンが王位簒奪を行ってカロリング朝を打ち立ててる」
「いくら実力ある家の出身とはいえ、王位を簒奪するに当たっては権威による後ろ盾が必要。小ピピンの場合はラヴェンナをローマ教皇に寄進することでローマ教皇の支持を取り付けている」
「そこで種が蒔かれたわけだ。カール大帝の戴冠の」
「そういうことになるわね。でも、小ピピンの子のカールもロンバルド王国討伐(774)に始まってサクセン征服(772-804)、後ウマイヤ朝撃退(778,801)やアヴァール人撃退など軍事的にも大活躍している」
「軍事面だけではなくて、内政面でも王国を州に分かって地方官である伯を派遣したり巡察使を派遣するなどという業績を上げている。こうしたことが戴冠に繋がっていったわけだ」
「カール大帝の戴冠は事前にカール大帝に知らされてなくて、イタリア貴族間の派閥争いの解決策の一環として、ローマ教皇が仕掛けたものだって言われている。そうなのかもしれないけど、結果として、カール大帝の戴冠によって西ローマ帝国が復興し、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文化復興が興ったというは大きな成果ね」

ドラクロワ「キオス島の虐殺」(1824)

ヴェージーヌ・ドラクロワ(1798-1863)による1824年の作品。ルーブル博物館所蔵。縦417cm、横354cm。画布、油彩。
この作品は、当時の
ギリシャ独立戦争におけるキオス島虐殺事件に題材を求めたもの。1822年に起きたキオス島虐殺事件では、約2万人が犠牲になったという。
この虐殺事件の知らせを受けると、ドラクロワはすぐに作品の制作に着手している。それだけ、彼がギリシャ独立戦争に並々ならぬ関心を抱いていたということの証左とも言えよう。
ちなみに、この作品の発表の前に英国の画家コンスタブルの作品を意識して背景を描きなおしたとされている。

ロマネスク(Romanesque)期
西ヨーロッパは9世紀から10世紀にかけて、北からノルマン人、東からマジャール人、南からサラセン人などの非キリスト教徒民族の侵入に悩まされるようになる。かつて、西ローマ帝国の滅亡の引き金を直接引いたゲルマン民族の打ち立てたメロビング王朝(486-751)、それを継ぐカロリング王朝(751-987)。その末裔である西フランク王国が同じゲルマンの血を引くノルマン人達の脅威に晒された。当時の西フランク王国には海軍はない。対するノルマン人達は河川を遡って攻めてくる。
やがて、ノルマン人に国家樹立の機運が高まる9世紀末から10世紀初めにかけて侵略は一段と激しさを増した。これに耐え切れなくなった西フランク王シャルルはノルマンの首領ロロに対してキリスト教改宗などを条件としてノルマンディーの地と妹を与える。
その後もノルマン人の西フランク王国への侵略は収まらなかったものの、ネウストリア辺境伯カペー家が防波堤となり、西フランク王国全土がノルマン人の支配下に置かれるという事態は回避される。そして、カペー家のユーグ=カペーがカロリング家断絶によってカペー王朝(987-1328)を樹立する。しかし、この時には王室に大きな力は既に無くなっており、ユーグ・カペーが細々とイル・ド・フランスの中だけで面目を保っていただけという有様。

このような中で大諸侯林立の封建制が出現。いわゆる中世が形成されていく。
そして、ノルマン人などの侵入がほぼ収まった11世紀後半から12世紀にかけて花開いたのがロマネスク文化。修道院復興において、バシリカ式を基本としつつも塔や聖堂を東西に配置するロマネスク式はトゥルーズのサン・セルナン大聖堂やいわゆる巡礼路聖堂に代表される見事な建築を現代に伝えている。修道院復興運動の主導したのは、ベネディクト修道院系クリュニー会とベルナルドゥスによるシトー会。この2つの会派がロマネスク美術を普及させる原動力となった。但し、シトー会はクリュニー会に比較すると質素な装飾を好んだと言える。
[
西洋美術史]を参照。

クリムト
オーストリアの画家にしてイラストレーター。両方に本質的な差がないとするなら、わざわざ分ける必要もない。
ともあれ、私の大好きな芸術家の一人。
ウィーン分離派(the Vienna Sezession)と呼ばれるグループを形成した人でもある。アール・ヌーボー(ART NOUVEAU)の第一人者。その画風は将に世紀末を表現したもの。非常にエロティックで肉体的。絵の中からエネルギーが、オーラが滴るような気がする。
オーラを放っているのではなくて滴っている。
彼も最初は師であったラウフベルガーから伝統的画法を学び伝統に忠実であった。そして、それ故に、名声を欲しいままにしていた。そこで満足しないのが天才の天才の所以たるところだろう。ウィーン大学の天井画「医学」、「法学」、「哲学」の制作で伝統を踏み越えていく。この"事件"は画壇の猛反発をくらう。それが35歳の時にウィーン分離派の創設者の一人になることの原因となる。その後、分離派の流れが自然主義へと向ったために、38歳の時に分離派から離れる。その間に、あのエゴン・シーレを見出している。
彼の独自性は、私生活にも現れている。クリムトは生涯独身を通したが、夭折した弟エルンストの妻でありブティック経営者でもあったエミーリエを愛する。その関係は生涯を通じて自由な恋愛だった。

ファルネーゼ宮殿(P.za Farnese)
現在ローマ・フランス大使館。ローマ市の西南、テヴェレ河畔に建つアントニオ・ダ・サンガッロの手によるルネッサンス風建築。後にミケランジェロが手を加えた。