印象派年表



ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841−1919)
 「Pierre-Auguste Renoir。喫茶店の名前?いえいえフランスを代表する印象派の画家。印象派のオリジナルメンバー。というわけで、彼の初期の作品は眩い色彩を多用した印象派絵画の見本のようなもの。
彼の画風はルーブルで数多く見ることの出来るロココ調の作品の影響を受けていると言われている。それは陶磁器の工房で働いた経験からきているみたい。
仲良しのモネ、シスレー、バジール(1841-1870)との出会いはグレール(Gleyre)の工房でのこと。
やがて、彼らと一緒にバルビゾンで描き始める。
そして、カフェ・ゲルボア(Cafe Guerbois)に集う印象派の芸術家達の主要メンバーになる。まぁ、同好会のようなもの。
彼はまた、多くの肖像画を書いたことでも知られている。その肖像画のテクニックを追及するために、そう断言して良いかどうか異論もありそうだけど、1880年代には印象派から離脱する。テクニックと言ったけど、より良い肖像画を描くために印象派の殻から飛び出したというような意味。
1881年から82年にかけてイタリア旅行をすることで印象派の頚木から新たな境地を目指そうとしている。
その試みは見事に成功。その間に描いた「The Umbrellas」は印象派の画風と新たに目覚めた画風とが同居している作品といえ、ルノアールの試行錯誤を読み取ることが出来る。晩年はリューマチを患って車椅子に乗る生活を送っている。芸術活動に打ち込むには最適とは決して言えないけど、それでも絵画以外に彫刻の制作まで行っている。
そこが凄いところ。
でも、やっぱり印象派を代表する画家」

菅原為長(1158-1246)
 「『太子伝傍註』を書いた人。
菅原という姓でわかるように、あの学問の神様の菅原道真の子孫。道真の子孫は道真の左遷の一件のあと、結局は許されて文章道の家として存続していた。
で、幾つかの家に分かれている。
そうそう、加賀藩の前田家なんかも菅原氏を祖先だとしているように武家の道を歩む子孫もいるにはいた。加賀前田家を例に出したけど、前田家が本当に菅原道真の子孫かどうかは別。
公家としての道を歩んだのは、何流かあるのだけれど、いわゆる堂上家としては、高辻家、唐橋家、五条家、清岡家、桑原家、東坊城家といった菅原六家が知られているね。
菅原為長は、そのうちの高辻家に産まれた。
まぁ、文章道菅原家の筆頭とも言える。
筆頭と言ったのは、血筋だけじゃぁないんだ。
彼は元久元(1204)年に土御門帝の侍読という地位に任ぜられ、それ以降、順徳、後堀河、四条、後嵯峨と5代の帝の侍読になっている。
嘉禎元(1235)年には参議に任命されている。
摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議の位にある人を公卿というけど、その公卿の仲間入りを果たしている。
菅原氏が公卿に任ぜられたというのは道真以来だから名実ともに菅原一族の筆頭と言って良いね。
仁冶元(1240)年には正二位にまで登っている。
当然、才能もピカ一で、巷の人は『文道棟梁』『今世之宏才』『当代大才』なんて呼んだという」
[参考]棚橋光男『鎌倉・室町人名事典』

聖徳太子伝暦
聖徳太子こと廐戸豊聡皇子(うまやどのとよとみみのみこ)に関する事跡を伝える書籍は幾つかあるが、その一つ。
この書の特色は、他の様々な太子伝を参考として網羅的に編集している点。
醍醐・朱雀朝頃に編まれたと考えられているが、その当時の太子伝の集大成だったと言える。
菅原為長による「太子伝傍註」から延喜17年に藤原兼輔が著述したものと考えられてきた。
上下2巻からなり間人穴太部皇女の立后から蘇我入鹿滅亡まで記述。

古代日本の絵画
日本の文化は、中国大陸・朝鮮半島から文化を積極的に吸収した時期と、吸収した外来文化を独自に発展させていく過程の繰り返し。
これは、絵画の分野でも同じ。
古代の絵画というと古墳の壁画を挙げることが出来る。例えば
高松塚古墳、藤ノ木古墳。こうした古墳の壁画は技術者集団が作製したと考えられている。
古代において芸術は技術と一体化していたことになる。しかし、芸術が技術と一体化し、しかも芸術作品が個人によってではなくて、集団によって製作されたというのは古代に留まらない。江戸時代の絵画しかり。ヨーロッパでも中世の作品が工房で製作されたということが知られている。
さて、古代日本において、文献上初めて絵画の技術者集団に関する言及がなされているのは「日本書紀」の雄略7(463)年条。ここに、百済から陶部高貴、鞍部堅貴、画部因斯羅我、錦部定安那錦、訳語卯安邦といった人々が日本にやってきたということが記されている。この中の画部因斯羅我(えかきべのいんしらが)は画部と冠せられていることから画家であったと考えられている。
その後、 推古12(604)年に黄文画師(きぶみのえし)、山背画師を定めたと「日本書紀」にあり、こと時に画家集団が公認されたということが分かる。
ちなみに、この黄文一族は「新撰姓氏録」によると、高麗国人久斯祁(くしき)王を祖とする一族であり高句麗出身。その他にも、「聖徳太子伝暦」では簀秦(すはだ)画師、河内(かわち)画師、楢(なら)画師を定めたとされ、山背画師・河内画師は百済、簀秦画師・楢画師は新羅の出とされる。
つまりは、いづれも朝鮮半島の出身ということになる。