以仁王の令旨が届く
以仁王の令旨が、1180(治承4年)年4月27日(壬申)、前武衛将軍源 頼朝の伊豆国の北條の館に到着。八条院の蔵人である源 行家が持参したのだが、この行家は源 頼朝の叔父に当たる。武衛(源 頼朝)は水干の装束に改め、まずは男山の方を遥拝して、非常に畏まって令旨に目を通した。頼朝に令旨を伝えた行家は甲斐と信濃の源氏に同じ令旨を伝えるために、伊豆国から両国へと旅立った。武衛(源 頼朝)は前の右衛門督藤原信頼に連座(「平治の乱」)して永暦元年3月11日に伊豆に配流されてから20年の歳月を京から遠くはなれて過ごしていた。この間、平 清盛は天下を欲しいままに支配し、御所を鳥羽の離宮にさえ移してしまう有様。高倉上皇はこうした平家の行いに頭を悩まされていた。こうした折に令旨が発せられたのである。従って、挙兵の決心を固める。天命を待って時宜を得て実行に移すといったところだろうか。さて、上総介平 直方朝臣の五代の孫の北條四郎時政は伊豆国の豪傑として知られていた。武衛(源 頼朝)を婿として忠節を励んでいた。このために、源 頼朝は以仁王の令旨を北條時政に示した。
蛭が小島の源 頼朝、北條政子像
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所 早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事 右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、最勝親王の勅を奉って称く、清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て、凶徒を起こし国家を亡ぼす。百官万民を悩乱し、五幾七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪す。命を断ち身を流し、淵に沈め楼に込む。財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。功無くして賞を許し、罪非ずしてに過に配す。或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。或いは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、百皇の跡を断つ。抑も一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅す。古代を絶する者なり。時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。仍って吾は一院第二の皇子たり。天武皇帝の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。 ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王三宝神明の冥感有るが如し。何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。然れば則ち源家の人、籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、清盛法師並びに従類を追討すべし。もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。 もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を賜うべきなり。諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。 治承四年四月九日 前の伊豆守正五位下源の朝臣