1186年 文治2年
2月に北條時政と京都守護を交替するために一条能保が上洛。一条能保は藤原丹波守通重の子。鎌倉殿の妹の婿であり京を離れて鎌倉にいた。京都守護職として北條時定らを率いて義経の探索を行う。ちなみに、一条能保の娘の全子は鎌倉殿の命乞いをした池禅尼の子の平 頼盛(池殿)の血を引く西園寺公経の妻であり、公経の外孫の頼経は鎌倉幕府将軍となる。
この年、義経の妾の静御前が吉野の蔵王堂で捕縛。北條時政の手に引き渡され、母の磯禅師とともに鎌倉に下向。筑後権守俊兼と民部丞盛時によって尋問されている。同時期、平家残党狩りに小松三位維盛の子の六代が掛かる。見つかったのは遍照寺。平家の嫡流ということで斬首となるところを鎌倉殿と親しい文覚僧正の願いによって出家の上で神護寺に預けられている。
鎌倉に入った静御前は北條政子の要望で鶴岡八幡宮で舞を舞っている。この時、鼓を打ったのは工藤左衛門尉祐経、銅拍子を鳴らしたのは畠山次郎重忠。静御前は、
「吉野山峯の白雪を踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しきしづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」
と歌ったという。鎌倉殿は感激し卯の花襲(はながさね)を静御前に与えている。
静御前がかなりの美貌の持ち主だったことは工藤祐経、梶原景茂、千葉常秀、八田朝重、藤判官邦道らがわざわざ逗留先に静御前を訪ね、梶原景茂が酔った勢いで静御前を口説こうとしたというエピソードからも知ることが出来る。
鎌倉では概ね暖かい扱いを受けた静御前。しかし、閏7月29日に出産した男の子は義経の子ということで、安達新三郎の手によって由比ガ浜で殺害されている。