1190年 建久元年
鎌倉殿(源 頼朝)の妹で一条能保の妻が亡くなる(4/13)。これを受けて、南御堂で法会が行われる(5/3)。また、7月15日には、平家討伐、奥州征伐の多くの犠牲者の供養として、勝長寿院で万燈会が開催されている。
鎌倉殿に対しては度々上洛が促されてきたが政情が安定していないことを理由として再三にわたって固辞してきた。その間、京都の後白河法皇に対して、九条兼実を介して各種の政治工作を実施。鎌倉殿の弟の義経を使嗾して鎌倉方の分断を図ったが、かえって鎌倉方の朝廷への介入を許すこととなる。鎌倉方のバックアップを得て、九条兼実は近衛基通を追い落として摂政の地位を獲得。しかし、朝廷の中にはまだまだ鎌倉に反発し、事有る毎に九条兼実を排除しようという動きがあった。こうした動きを封じるために鎌倉殿の上洛がこの年になってようやく行われる。
『愚管抄』曰く「十一月七日、頼朝ノ卿ハ京ヘ上リニケリ。ヨノ人ソウニタチテマチ思ケリ。六波羅平相国ガ跡ニ二町ヲコメテ造作シマウケテ京ヘイリケル。キノフトテ有ケル。雨フリテ勢田ノ辺ニテトドマリテ。思サマニ雨ヤミテ七日入ケルヤウハ。三騎三騎ナラベテ武士ウタセテ。我ヨリ先ニタシカニ七百余騎アリケリ。後ニ三百余騎ハウチコムテ有ケリ。」
鎌倉殿はかつての平家の本拠地である六波羅に邸を構え、最初は法皇に続いて後鳥羽天皇に拝謁。鎌倉殿は権大納言に任命される。しかし、鎌倉殿が望むのは武家の棟梁たるに相応しい征夷大将軍。ために、鎌倉殿は権大納言と右大将を数日後に辞任。続いて、鎌倉殿は、千葉常胤、小山朝光、三浦義澄、和田義盛、比企能員、八田知家、梶原景時、葛西清重、足立遠元、佐原義連の10人を衛門尉・兵衛尉に任命。
鎌倉殿は12月14日には京を出発し29日に鎌倉に戻った。